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「愛することはない」と言った旦那様と離婚して、王都一の魔導衣装師になりました  作者: 星舟能空


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第3話 無資格の手

 王都誓約庁には、朝から人が溢れていた。出生、奉公、売買、婚姻、離縁――誰かと何かを結ぶたびに紙が一枚増える国で、そのすべての控えを収める建物は、灰色の石と古い羊皮紙の匂いがした。夜明けからの雨を吸った外套が百人ぶん持ち込まれ、床だけは濡れた羊毛の匂いを濃くしている。


 三十二番の木札を握り、待合の長椅子で左腰の裾飾りを何度も確かめた。金糸を抜かれた白金の布は、灰色の上衣の上で口を開けている。見えるように出して座っていても、気づいた人は一人もいなかった。閉じているものだと思えば、誰も端と端を見ない。


 向かいに座る老婦人の裾飾りは、四十年ほど前の型だった。金糸は三か所で細くなっているが、端と端は無理なく重なり、夫婦双方の魔力が同じ速さで流れている。隣の若い男は新婚らしく、まだ硬い絹を気にして何度も腰へ触れていた。その輪には第十二条があるものの、文字が逆向きで、妻だけが夫の仕事を奪わない誓いになっている。


 教えてよいのか迷い、結局声をかけなかった。今の私は資格を持たず、何より、相手が診断を望んでいるかを訊いていない。見える不備をすべて直すことと、見えたものをすべて告げることは違うのだと、昨日まで知らなかった。


 棚には王家の即位誓約も、隣町の徒弟契約も、同じ大きさの紙に写されている。身分にかかわらず約束を残す建物で、私の婚姻だけが最初から一枚もなかった。その空白を恥ずかしいと思うより先に、三年間、空白を私のせいにされずに済むことへ安堵した。


 昼鐘が鳴る少し前、ようやく四番窓口から番号を呼ばれた。そこにいたのは四十歳ほどの痩せた官吏で、髪も声も薄いのに、机の上だけは異様に整っている。紙の角が一枚もずれていない。


「婚姻不成立の申立て。裾飾りを」


 留め糸を外して机へ置くと、男は硝子板を重ねた。淡い光がほどけた金糸の跡をなぞり、閉環を示す光を浮かべないまま消える。次に庁の控えを開き、日付と名を照らし合わせた。


「閉じた痕跡がありません。成立記録もなし。申立人、ヴェレナ・ノルデン。相手方、ギルベルト・ハーロウ」


「はい」


「昨夜までは、ハーロウ伯爵夫人だったのでは」


「そう呼ばれていただけです」


 彼は初めて顔を上げ、私を一度見た。余計な同情も好奇心も口にせず、申立書の名を消さないまま、その下へ「婚姻記録なし」と書く。


「不成立の理由は」


「婚礼誓文の第十二条が、ハーロウ家の原型紙から欠けています」


「第七条と対になる条項ですね」


「ご存じなのですか」


「数えるのが仕事です」


 私は、その答えを少し好きだと思った。男は裾飾りを裏返し、拡大鏡を抜いた糸の跡へ近づける。原型どおりなら何もないはずの場所に、小さな針穴が整然と並んでいた。


「この第十二条を縫ったのは、どの衣装師です」


「私です」


「質問を言い換えます。どの衣装師の監督で」


「誰の監督も受けていません」


 男の指が止まった。隣の窓口では奉公契約を破られた青年が声を荒らげ、奥では赤子が泣いている。その雑音が遠くなったのは、部屋が静まったからではない。自分の名を、自分の罪の隣へ置くのが初めてだったからだ。


「資格証を」


「ありません」


「無資格者が誓文刺繍へ触れれば、罰金では済まない場合があります。承知していますか」


「承知しています。それでも、妻の出来が悪いから閉じなかったと記録されるのは、事実と違います」


 男は羽根筆を置き、もう一度針穴を検めた。


「あなたが足した第十二条は、文言も縫い順も正しい。だから片側だけが閉じようとして、三年間も輪の形を保った。技術がなければ、ひと月でほどけていたでしょう」


「それは情状になりますか」


「悪質と取る者もいます」


「では、それもそのまま書いてください」


 調書の下へ新しい欄が引かれ、「無資格施術、一着」と記された。自分の裾は別件である。婚家の蔵で、他家の婚礼衣装へ同じ第十二条を足したのは六十九着。それ以外にも四十七着を管理し、通常の糸で袖や裏地を直し、術式の不具合を読んだが、魔力を通す針を使ったのは自分の一着と他家の六十九着だった。


「この一着を記録すれば、私は試験を受けられなくなりますか」


「違反の内容と処分が決まるまでは、受験申請そのものを拒む規程はありません。ご自分の裾だけで、金銭も取らず、ほかへ被害を出していないなら、罰金と訓戒で終わる可能性はあります」


「可能性、ですか」


「処分を決めるのは私ではありません。窓口の親切を判決のように受け取らないでください」


 声は冷たかったが、私が都合のよい言葉だけを頼りに進まないよう、線を引いてくれたのだと分かった。男は一着分の申告書と婚姻無効届を別の紙へ書き、綴じる紐の色まで変えた。何もかも一つにして抱えてきた私には、責任を分けて記録する手つきが新しかった。


「ほかにもありますか」


 羽根筆の先をインク壺へ入れたまま、男が目だけを上げる。ここで六十九と言えば、すべての家に調査が入る。今朝出た三着は止まるかもしれないが、すでにその衣装を着て暮らす者たちは、婚姻だけでなく子の身分や相続まで疑われる。


 黙れば、また私が全員の代わりに決めることになる。


「あります」


 答えると、男は紙の端を指で揃えた。


「私は今、あなた自身の婚姻無効について訊いています。ほかの衣装については、件数も家名も訊いていません」


「ですが、それでは隠すことに」


「順序を分けます。今ここで混ぜれば、婚姻無効の受理まで止まり、今朝の三件へ警告を出す根拠も作れない。隠すとは言っていません」


 先に一つを終わらせ、次の一つへ移る。私は一度にすべてを抱えることばかり覚えて、その手順を知らなかった。


「ほかの件は、いつ申告すればよろしいですか」


「件数、所有者、現物の所在、あなたが縫ったと示せる記録を揃えてからです。今、記憶だけで家名を並べれば、調査が先走り、衣装を隠す家が出ます」


 母の型紙帳には日付と貸出先がある。けれど、私しか知らない私的な記録で、相手方の署名は一つもない。六十九着を公にするには、自分が言ったという事実だけでなく、布と紙を同じ場所へ集める必要があった。


「揃えます」


「急いで雑に揃えるくらいなら、時間をかけてください。あなたの手が残る時間とは、別に数えるべき仕事です」


「今日は、あなた自身の裾が閉じなかったことを記録します。よろしいですね」


「……はい」


 署名を終えると、男は裾飾りを返さず、「次は右手を」と言った。指先を硝子板へ載せる。板の端を弾かれると、細い光が爪から腕へ走り、皮膚の下に古傷のような白い筋を浮かべた。


「痛みは」


「冬は少し。長く針を持った日は、夜に水差しを落とします」


「長く、とは」


「十時間ほどです」


「それを長いと呼ばない工房には行かないでください」


 初めて男の声へ温度が混じった。彼が検査紙へ書いた数字は、私の予想より短いものだった。


「術式縫製紋が摩耗しています。この使い方を続ければ、あと二年ほどで細い針を保持できなくなる可能性が高い。通常の針を持てても、魔力は通せなくなります」


 親指の腹は硬く、人差し指の側面には針だこがある。細くも美しくもないが、母の手に似てきたと思っていた。二年後には、似ているだけの手になる。


「資格を取ります」


 方法を考える前に声に出すと、男は抽斗から試験要項を取り出した。


「三級試験は四十日後。申込みは試験の十日前まで、受験料は銀貨十五枚です。受験資格は二通りで、二年の修業歴があるか、現役衣装師二名の推薦があるか」


「私は三年間、伯爵家で衣装を管理していました」


「修業契約も指導者の署名もない。修業年数には算入されません。あなたに必要なのは推薦二名です」


「三級になれば、婚礼誓文を縫えますか」


「新調はできません。診断と定型内の補修までです。ただし、自分の名で料金を取り、自分の責任で記録を残せます」


 それで十分だった。王都一の衣装師になりたいのではなく、自分のした仕事を、自分の名で残したかった。


 男は三級で許される針の太さと糸の種類も教えてくれた。銀糸までの定型補修、使用済み衣装の診断、既存流路を変えない範囲の逃がし口の管理。金糸、新規誓文、王家の型紙起草には触れられない。それでも、客へ選択肢を示し、選ばれた仕事へ自分の名をつけることはできる。


「今お話しくださったことを、要項の余白へ書いてもよろしいですか」


「余白へ書いた規程は効力を持ちません」


「私が忘れないためです」


 彼は羽根筆を貸してくれた。自分の手で書いた文字は、昨夜抜いた金糸より細く、まだどこにも繋がっていなかった。


 婚姻無効届の副本を受け取り、昨夜持ち出した診断書を三通に写してもらう。それぞれに誓約庁の受領印が押されると、初めて私の警告は、元妻の恨み言ではなく、届けた時刻まで残る紙になった。


「三家へ、庁の使者を出していただけますか」


「止める権限はありません。受け取った者が、知らなかったとは言えなくなるだけです」


「それで構いません」


 注文票から住所と式の時刻を書き写すと、男は三通を時刻順に並べ、砂時計へ目をやった。一着目の式は正午でもう着付けが始まっているが、残る二家には、花嫁と花婿が選ぶ前に届くという。


「一通目も届けてください。遅かったことまで、残したいのです」


 三通の謄本と使者代は、合わせて銀貨一枚だった。窓口を離れ、待合の隅で財布を開く。持って出た三十二枚は三十一枚になり、受験料を除けば十六枚。最安の宿でも一晩一枚、試験までは四十日あるから、二十四日ぶん足りない。


 金より難しい条件もあった。仕事を得るには資格が要り、資格を得るには二人の衣装師に私の仕事を認めてもらわなければならない。だが、昨夜までその仕事から自分の名を消してきた。


 裾飾りを左腰へ留め直し、濡れた外套を羽織った。私は三年間で、他家の六十九着に誓文を縫った。それでも、私が衣装師だと証言できる衣装師は、一人もいなかった。その空白から始めるしかなかった。


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