第2話 三着の婚礼衣装
ハーロウ家の衣装蔵は、夜でも灯りを必要としない。壁沿いの木製胴へ着せられた四十七着の礼装が、虫除けの緑、型崩れを防ぐ青、湿り気を吸う乳白色をそれぞれに宿し、誰もいない蔵で緩やかに呼吸しているからだ。
三年前に初めて足を踏み入れたとき、身体のない衣が並ぶ光景を怖いと思った。今では、この屋敷でいちばんよく知る場所だった。左から七着目の当主用冬礼装は襟裏の銀糸が痩せ、奥から三着目の先代夫人の喪服は、防涙の術式が強すぎて目の粘膜まで乾かす。来週直すつもりで、必要な糸も取り寄せてあった。
もう直さないのだと、口に出さずに確認する。四十七着の光は、私がいなくなることを知らず、いつもと同じ速さで明滅していた。
奥の作業台には、明朝出る婚礼衣装が三着並べられていた。一着目は細身で、杏色の起毛した裏地を持つ。花嫁は十七歳で冷え性だと注文票にある。二着目は生成りの絹に野苺を刺し、花嫁自身が描いたらしい図案の線が少し震えていた。三着目の上等な白絹には、腰回りを二度広げた跡があり、「式までに痩せられず申し訳ない」と短い手紙まで添えられている。
謝る必要などない。人が衣装へ身体を合わせるのではなく、衣装のほうが人へ合わせるものだ。その当たり前のことを、私は他人の衣装にならいくらでも言える。
三着の裾を順に開く。第一条から第十一条までは、いずれも寸分違わず美しく縫われていた。第十二条だけが、どれにもない。
昨日までなら、私は夜中に金糸を足した。花嫁にも花婿にも知らせず、朝までに包み直し、一組を救ったつもりになった。自分の一着とは別に、婚家でそうして縫った衣装は六十九着ある。一度として名を残さず、一度として代金を受け取らなかった。
公の台帳には「型紙貸出、異常なし」としか残っていないが、私は母の型紙帳の後ろへ、日付と貸出先、足した糸の長さを記していた。最初の一着はヴェッセル家の従姉、金糸二尺三寸。十着目は北街道沿いの商家、冬の乾燥で糸が縮んで二度やり直した。六十九着目は先月のローデ家で、花嫁が成長したぶん腰を広げた跡まで書いてある。
名前を隠して仕事をしながら、記録だけは捨てられなかった。誰にも見せられない帳面でも、縫った人と着た人がいた証拠になると思っていたからだ。今夜その帳面を持ち出せば、私は六十九件を自分の罪として残すことになる。
針箱の蓋へ手を置くと、手首の奥がじくりと痛んだ。三着なら夜明けまでに間に合う。縫い終えた翌日は水差しを落とすほど指が痺れるだろうが、十七歳の花嫁は人前で恥をかかずに済む。その計算は、あまりによく知っていた。
「奥様」
振り向くと、アンナが大きな鞄を二つ運び込んできた。一つには普段着が畳まれ、もう一つには保存パンと干し肉、それに小さな塩壺が詰められている。
「もう奥様ではありません、アンナ」
「三年もそう呼びました。今夜くらい待ってください。それに、急にお名前でお呼びすると、私のほうが追い出された気がいたします」
「衣装蔵へ食べ物を持ち込んではいけません」
「それを叱れるなら、お元気ですね。銀器は入れていませんよ。あれは帳簿で数えられますから」
「パンも数えられます」
「パンの数で追っ手を出す家なら、なおさら早く逃げてください」
笑ってよいのか迷っているうちに、蔵の扉が勢いよく開いた。ギルベルトは上着を脱ぎ、襟元を緩めている。広間で慈悲深い夫として整えていた顔は、もう残っていなかった。
「何をしている」
「荷造りです」
「見れば分かる。なぜ三着に手を入れていない」
彼は開かれた裾を見下ろしたが、欠けた条項は、数えるつもりのない目には見えない。それでも、針が出ていないことなら分かったらしい。
「今夜の話を聞いていましたか」
「聞いていたから来た。お前の裾飾りへ第十二条を縫い直せ。今度は私も承知したと式官の前で言う。そのあと正式に離婚すれば、何も問題は残らない」
「持参金を返さずに済みますものね」
「家同士の会計を守るためだ。お前にも相応の扶養金を出す。感情ではなく、現実を見ろ」
「返すべき持参金は、金貨四百二十枚です。今この家にある現金は十一枚。どこから扶養金を出されますか」
帳簿を管理していた三年間で、私には答えが見えていた。型紙貸しの前金、来年分の小作料、イレーネの実家から入る新たな持参金。ギルベルトはまだ受け取っていない誰かの金を順に繰り入れ、今日の穴を明日へ送るつもりだった。
「財産分与は年賦にできる。持参金さえ戻さずに済めば立て直せる」
「そのために、私がもう一度妻になる必要があるのですね」
「一刻もかからない。式官の前で一言頷くだけだ」
「三年を奪ったことは数えず、私の一刻だけを安いと決めるのですか」
彼には、本当に意味が分からないらしい。現実を見るとは、家の帳簿に載る金だけを見ることだった。私の指から失われた紋も、夜ごと蔵で使った時間も、無料だったから一度も勘定に入らない。
「三年間を有効だったことにする代金として、ですか」
「言い方を選べ」
「今夜からは、自分で選びます」
ギルベルトの口元が固く結ばれるのを見ながら、私は三着の注文票を重ね、その上へ、彼が来るまでに書いておいた診断書を置いた。
『誓文第十二条欠落。現状のままでは婚姻術式は成立しない。着用前に、資格ある衣装師による確認を要する』
「これを各家へ渡し、式を延期してください。別の正規型紙を使うか、資格のある方に検めてもらうかは、花嫁と花婿へ選んでいただきます」
「三家とも客を招き、料理を入れ、教会へ寄進している。延期すればいくら失うと思っている」
「存じません。ですから、当事者へ訊いてください」
「お前が縫えば、誰も何も失わない」
「私は資格を持っていません」
「昨日までは縫った」
その一言は、針より正確に刺さった。逃げずに頷くと、彼は勝ったつもりになったのか、肩の力を少し抜いた。
「はい。自分の一着とは別に、六十九着へ勝手に第十二条を足しました。知っていて嫁いだのは私の落ち度です。けれど、知ったあとまで同じように繕うのは、落ち度ではなく、ただの間抜けです」
「三人の娘を見捨てるのか」
杏色の裏地へ触れると、柔らかな起毛が指の腹を撫でた。野苺を描いた少女は、自分の線が晴れの日に光るのを待っているだろう。三着目の花嫁は、今夜も夕食を減らしているかもしれない。縫えば明日の三人は笑え、その代わり、欠けた型紙は正しいものとして次の家へ貸し出される。
「見捨てません。欠けていると伝えます。延期する、別の型を使う、承知のうえで着る。そのどれを選ぶかは、本人たちのものです」
「選ばせれば混乱する」
「選ばせなかった結果が、今夜です」
彼は診断書を取り上げて目を走らせ、鼻で息を吐いた。
「これは出さない。三着は予定どおり出す。お前が今ここで直さないなら、起きることはお前の責任だ」
「いいえ」
私は診断書を拾い、二枚目の薄紙を重ねた。筆圧で写した控えを鞄へ収める。
「私の責任は、無資格で六十九着を縫ったことです。あなたが警告を捨てて衣装を出す責任まで、元妻ですらなかった女へ渡すことはできません」
しばらく私を見つめた彼の目は、知らない生き物を値踏みするようだった。やがて何も答えず、扉を開けたまま出ていく。
「戸くらい閉めていただきたいですね」
アンナが扉へ向かいながら言った。
「閉めることは、お得意ではないのでしょう」
今度は笑わなかった。蔵のいちばん奥へ進み、棚から布包みを一つ下ろす。母の遺品で、この家へ持ってきた私物はそれだけだった。
中の型紙帳は、革の角が丸くなり、頁の端が指の脂で灰色になっている。母の字は細く、急いで書いても読みやすく、布の癖、糸の産地、失敗した袖の直し方が隙間なく並んでいた。最後のほうに、二重線で囲んだ一文があった。
『閉じない裾は、縫うな』
その下には、太く歪んだ幼い字で『ぬいました』とある。七歳の私が、母の留守に書き足したものだ。叱られた記憶はなく、母も四文字を消さなかった。
頁を戻すと、母が教えた基本型の間に、私の六十九件が細い字で挟まっている。帳面を汚すことが怖く、最初は消せる木炭で書いた。二十着を越えたころから墨へ替えたのは、いつか自分のしていることを消してはいけないと思い始めたからだろう。思いながら、さらに四十九着を縫った。
「お母様は、何をご存じだったのでしょうね」
「分かりません。だから、訊ける人を探します」
針箱は置いていった。中の針はハーロウ家の金で買ったものだ。ほどけた裾飾りを灰色の上衣の左腰へ留め直し、母の帳面と、黒い三寸の金糸を入れた布袋、診断書の控えだけを自分の鞄へ収めた。
夜明け前、使用人用の門を出ると、アンナが三日分の食料を渡してくれた。
「奥様がいらしてから、この家の衣装は一度も燃えませんでした」
それは慰めではなく、私がここでした仕事への初めての評価だった。喉へ何かがせり上がり、うまく礼を言えないうちに、背後の正門で車輪が鳴る。
「四十七着のうち、当主様の冬礼装は一月以内、先代奥様の喪服は次に着る前に、資格のある方へ見せてください。紙に箇所を書いて、蔵の台へ置きました」
「出ていく朝まで、こちらの心配をなさるのですか」
「着る方が焼けるのは、私が出ていく理由とは別です」
アンナは叱りたそうな顔をしたが、やがて鍵束を握り直した。私が夜ごと蔵へ入ったことを知りながら、三年間一度も夫へ告げなかった人である。黙って助けることの危うさを、私はこの人にも残していく。
「異常を見つけたら、アンナが直してはいけません。着る本人へ伝え、誰に頼むか決めてもらってください」
「分かりました。奥様も、知らないところで勝手に私たちを助けないでくださいませ」
最後まで呼び方は直らなかった。その代わり、アンナは初めて私へ命令ではなく約束を返した。
三台の荷馬車が、白布を掛けた衣装箱を積んで続けて出てきた。止めようと思えば声は届く。けれど、もう一度蔵へ戻り、誰にも知られず縫えば、何も変わらない。
私は道を譲らなかった。御者のほうが手綱を引き、杏、野苺、白絹の三着を積んだ車は、立っている私を避けて朝靄の道へ進む。一着目の花嫁は、正午前にその裾を身につける予定だった。




