第1話 ほどけた裾
燭台の火が揺れるたび、ハーロウ伯爵家の大広間では、百を超える術式が布の上で明滅していた。薔薇の刺繍は香りを放ち、百合は葡萄酒の染みを弾き、銀の小鳥は踊る足を軽くする。客たちは光を見て衣装を褒めたが、私の目はその下にある布へ向かう。肩から落ちる重み、脇に溜まる熱、踵へ触れる縫い代――衣装は人を飾る前に、人の肌を包むものだからだ。
壁際から眺めただけでも、今夜十二人目の令嬢が自分の裾を踏みかけた。薄青の絹紗は右腰だけ半指ぶん長く、踊るたびに斜めへ引かれている。あとで直しておこう、と考えたところで、私はもう「あとで」が自分に残されていないことを思い出した。
「奥様。旦那様が、広間の中央へ」
葡萄酒の杯を勧めるふりで近づいてきた女中頭のアンナは、いつもより口を動かさずに囁いた。私は銀盆から杯を取らず、磨き込まれた床へ視線を戻した。
「見えています」
「そうではなく。あの方もご一緒です」
それも見えていた。ギルベルトは人垣を割り、磨いた長靴の踵を鳴らして進んでくる。その腕に手を添えているのは、淡い金髪を高く結ったイレーネ・ヴァイス嬢だった。
彼女の青い礼装は、三日前に私が手を入れたものだ。肘の内側で銀糸が肌へ近づき、熱を返していたため、術式には触れず、裏地の縫い代を二目だけ緩めて柔らかな絹を当てた。直したことは誰にも告げていない。伯爵夫人が他家の衣装を勝手に裏返したと知られれば、相手の腕を守った事実より、私が家の許しなく働いた事実だけが問題にされるからだ。
言わなければ、イレーネの腕は赤くならずに済む。言わなければ、私のしたことも存在しない。二十三年生きたうちの三年間、私はその二つを同じ意味だと思うように努めてきた。
嫁いだ最初の月、ギルベルトから渡されたのは寝室の鍵より先に衣装蔵の鍵だった。「母上の喪服が湿気を吸っている」と頼まれ、直せば次は狩装、その次は祭礼服が運ばれてきた。夫と同じ食卓へ着く夜は月に数度しかなくても、彼の襟が首へ当たる癖や、右袖だけ早く擦れることなら知っている。妻として近づけなかった身体を、衣装越しに三年間支えていた。
それを愛情だったとは言わない。必要とされる形がほかになく、手を動かしていれば、自分がこの家にいる理由を数えずに済んだだけだ。今夜も十二着の不具合を見つけたことに、誰も気づいていない。
「皆に報告がある」
ギルベルトが中央で足を止めると、楽師の弓が遅れて止まり、細い一音が高い天井へ残った。彼の声はよく通る。数字を読み違えることはあっても、部屋の全員に自分の言葉を聞かせることだけは、いつも見事にできる人だった。
「私は、イレーネ・ヴァイス嬢を妻に迎える」
驚きより先に、互いの顔色を確かめるざわめきが広がった。招待客の多くは二人のことを知っていたのだろう。知らなかった者も、私が今夜どのような顔で恥を受け取るのかには興味があるらしい。扇の隙間から向けられる視線は、細い待ち針を何十本も刺したようだった。
「ヴェレナ」
名を呼ばれ、私は壁際から四十歩を歩いた。途中、氷の術式を縫い込んだ裳裾が床へ薄い霜を残していたので、それを踏まないよう半歩だけ迂回する。こんなときまで衣装の具合を見ている自分がおかしくて、かえって呼吸が整った。
ギルベルトの前で止まり、扇を閉じる。青い袖を掴むイレーネの指には力が入っていたが、目は逸らされなかった。
「私と離婚してくれ」
馬車の中で練習したのだろう。言葉のどこにも迷いがなかった。
「理由を伺えますか」
「愛しているのは彼女だ。この三年、一度も君を愛したことはない」
イレーネが小さく息を吐いた。その安堵を見て、この人も三年間、決して楽ではなかったのだと思う。だからといって、私が彼女の分まで傷つかなくてよい理由にはならない。
「伯爵夫人。私は、あなたをこの場で辱めたいと申したのではありません」
イレーネの声は震えていたが、逃げなかった。ギルベルトは彼女の手へ自分の指を重ね、「君が気にすることではない」と、私へ向けたことのない優しさで遮る。
「では、どなたがこの場を選ばれたのですか」
「私だ。証人がいれば、あとから君が言葉を変えることもない」
夫が私を信用していないのと同じほど、私も夫を信用していなかった。だから百人の前で告げられたことだけは、ありがたかった。家の奥なら、私の返事もまた、都合よく縫い直されていただろう。
「それは、離婚の理由にはなりません」
「なるとも」
ギルベルトは懐から折り畳んだ紙を出した。ハーロウ家の婚礼誓文の写しである。端には蔦の透かしが入り、代々の家法であることを示す黒い封蠟まで添えられていた。
「第七条には、『夫は妻を愛することを要しない』とある。私は最初から誓約に違反していない。落ち度のない離婚なら、慰謝料を払う必要もない。それでも君の今後を考え、相応の扶養は用意するつもりだ」
最後だけ声を和らげたのは、慈悲深く聞こえるようにするためだ。私がここで泣けば、彼は愛のない妻を自由にした寛大な夫になれる。怒れば、耐え難い女と別れた被害者になれる。そのどちらにも針を貸す気はなかった。
「承知しました」
彼の眉間に、ごく小さく皺が寄った。私は扇をアンナへ預けて両手を空け、続けた。
「あなたと暮らすことをやめるのは、承知いたします。ただし、離婚はできません」
「今、承知したと言っただろう」
「ギルベルト様。第七条の次を読めますか」
「何?」
「第八条です。では、その前の第六条は。最後の第十二条は、覚えておいでですか」
答えはなかった。招待客の中には婚姻契約を扱う法官が二人おり、一人は目を伏せ、もう一人は眼鏡を外してこちらを見ていた。知らないのは夫だけではない。知っていて口を挟まない者と、そもそも数えたことのない者が、この広間には大勢いた。
私は灰色の上衣の左腰へ指をかけた。そこには三年前の婚礼衣装から切り取った裾の一片が縫い付けてある。この国の妻が婚姻の証として身につける「裾飾り」だ。掌ほどの白金の布には、ハーロウ家の蔦紋を囲むように婚礼誓文が縫われ、端と端を金の輪が結んでいた。
三年前の朝、この輪は何度結び直しても閉じなかった。式まであと一刻、実家の馬車はすでに門へ着き、父からは「今さら余計なことを言うな」と告げられていた。私は蔵へ入り、母の型紙帳で足りない一行を探し、自分の魔力を通した金糸で第十二条を足した。
針穴の数も、糸を引いた方向も正しかった。けれど、ギルベルトがその条項を知らないまま誓えば、私一人の意思しか流れない。輪は端と端を触れ合わせただけで、三年のあいだ、毎晩私が結び目を締め直さなければ開こうとした。
「婚礼誓文は、本来十二の条項で閉じます。第七条は、政略婚で夫に情愛を強制しないための条項です。そして、その対価となる第十二条は――夫は妻の手と仕事を取り上げない」
私は布の裏へ渡した金糸の端を探り、指先へ絡めた。三年前の朝、原型にない一行を誰にも言わず足した糸である。
「我が家の誓文に、そのような文言はない」
「ええ。ありません。だから、閉じていないのです」
糸を引くと、絹が絹を擦る微かな音がした。最初の結び目がほどけ、その縮みが次の結び目を引く。金糸は縫った順序を逆に辿りながら蔦の根を離れ、溜め込まれていた光が、小さな雫となって磨かれた床へ落ちていった。
誰かが声を上げ、ギルベルトが手を伸ばす。私は半歩退き、左腰の留め糸を外して、開いた裾飾りを掌へ載せた。これまでなら、退いたぶんだけ彼の手が届いた。今夜は、その手より先に自分のものを取り戻せた。
「やめろ。現に、その輪は三年間――」
「閉じるふりをしていただけです。私は第十二条を足しましたが、あなたは知らず、私は言わず、式官は数えなかった。誓いは、一人で縫い足しても成立しません」
最後の一画が消えると、閉じているように見えた金の輪も失われた。布の端と端のあいだには、指一本ぶんの空白がある。眼鏡を外した法官が近づき、触れずに身を屈めた。
「閉環の痕跡がない」
低く漏れたその声は、私の味方をするためのものではなかった。ただ事実を読んだだけだったからこそ、広間のざわめきを止めた。
「この裾は、最初から閉じていません。私とあなたは、三年前から結婚していません」
「では、あなたは三年前から全員を欺いていたのですか」
その問いを発したのはイレーネだった。責めるより、自分が立とうとしている場所を確かめる声に聞こえた。
「はい。閉じないと知って婚礼へ出たことは、私の落ち度です」
「ならば、今ここで縫い直せばよい」
ギルベルトが急いで割り込む。自分が第十二条を承知したと言えば、今からでも輪は閉じると理解したのだろう。
「そのあと私と離婚し、イレーネを迎えれば、誰も困らない」
「私は困ります」
三年間、誰かの不都合を避けるためなら、自分の不都合は数えない癖がついていた。公衆の面前で初めて言ったその四文字は、金糸を引くより難しかった。
「閉じなかった理由も、無資格で縫った事実も、明日、誓約庁へ届けます。今夜だけ帳尻を合わせるために、もう一度針を入れることはいたしません」
イレーネは青い袖へ目を落とした。私が裏へ差し入れた絹は外から見えず、銀糸だけが何事もなかったように淡く光っている。彼女がその仕事を知ることは、おそらくない。それでも、今ここで私が隠さないと決めたことだけは、見届けた。
ギルベルトの顔から血の気が引いた。婚姻がなかったなら離婚もなく、離婚がなければ夫の温情も妻の落ち度も成立しない。持参金、相続、イレーネとの婚約――彼が整えたつもりの帳尻は、最初の一行から書き直さなければならなかった。
「お前は、知っていたのか。三年間も」
「はい」
「なぜ黙っていた」
責める声を聞きながら、私は抜いた金糸を指へ巻き取った。細い糸は汗を吸って鈍くなり、第七条を縫っていた三寸だけが、熱を溜めて煤のように黒ずんでいる。そこだけを鋏で切り分け、小さな布袋へ収めた。
「今、それを私に訊きますか」
夫は答えられなかった。代わりに、背後で貸出簿を抱えていた家令が目を逸らす。焦茶の革表紙は見慣れたものだった。ハーロウ家の型紙を借りれば由緒ある正しい誓文で婚姻できると、二十三家が信じて使用料を払っている。
私は家令を呼び止めた。
「次に衣装が出るのは、いつです」
広間中の視線を受けた彼の喉が動いた。
「明朝でございます。三着とも」
自分の裾をほどいたことで終わると思っていた。だが、私が引いた一本の先には、まだ顔も知らない三人の花嫁がいた。




