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「愛することはない」と言った旦那様と離婚して、王都一の魔導衣装師になりました  作者: 星舟能空


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第36話 二軒目から

 最初に工房名を公表したのは、フォスだった。自分の帳面から数字を出し、試着者本人の同意を取り直すまでは名を載せないという条件まで書いた。彼の署名があっても、二軒目は三週間現れなかった。


 雨の朝、直し屋の扉を開けたのは、十九歳のエルナ・ボスだった。革包みを両腕で抱え、父親の工房印を押した外套を着ている。


「父の帳面を持ち出したわけではありません。今朝、工房を継ぎました」


 若い親方は濡れた髪を拭くより先に、事業継承の紙を見せた。父は前日付で引退し、娘を正式な親方として組合へ届けている。照会状へ返事をしなかったことまで、仕事と一緒に渡したのだという。


「急いで継いだのですか」


「いいえ。二年前から決まっていました。ただ父は、最後の日までこの帳面を自分のものだと思っていた。私が継ぐのは注文と借金だけで、過去は父が持っていくつもりだったんです」


 エルナは継承証の品目欄を指した。設備、在庫、契約、負債の次に、「業務記録二十三年分」と自分で書き足し、父にも署名をさせている。恥だけを入れた私物として帳面をしまい込まず、次の親方が安全を決めるための工房資産として受け継ぐ考えだった。


「お父様を告発したいのですか」


「父がしたことも、私が黙ったことも、同じ帳面へ置きたいだけです。告発になるかは、読んだ人が決めるでしょう」


 十九歳の顔に似合わないほど整った返事ではなかった。言い終えたあと唇を噛み、革包みから手を離せずにいる。その怖さごと持ってきたものを、勇敢な若い親方という飾りへ替えないよう、私は質問と返事をそのまま記した。


「お父様は同意されていますか」


「帳面を持っていくことには。工房名を出すかは、私が決めろと言われました」


 エルナは帳面を開いた。二十三年分の試着者、報酬、注文主、衣装番号がある。焼損欄は三十一件だったが、その横へ彼女自身の手で一件が加えられていた。


 三十一件のうち、治療費まで記されたのは十二、休業日数があるのは五、本人の名が一部でも残るのは九だった。残りは衣装番号と「再調整」の印だけで、何を調整したかは読めない。エルナは父の字と職長の字、自分が見習いとして記した字を色札で分け、推測で埋めた箇所には鉛筆を使っていた。


「三十一に、私の一件を足して三十二です。でも、再調整の中にまだあるかもしれません」


 私は三十二を確定値にせず、確認できた下限とした。帳面が詳しいから数が多いのか、実際に事故が多かったのか、この一冊だけでは比べられない。工房名を出す勇気への褒美として数字を軽くすることも、名を出さなかった父への罰として重く見せることもしなかった。


「十二歳のとき、三回着ました。二回目に首の後ろを焼きました。言わなかったので、父の帳面にはなかった」


 髪を持ち上げると、生え際の下に細い痕が見えた。私は近づいて確かめる許可を求め、触れずに長さと位置だけを記す。


「なぜ、七年後の今、お話しになったのですか」


「十一歳で名前を出すと言った子がいると聞きました。十九歳の親方が工房の名を隠したら、その子にだけ勇気を払わせることになります」


 リッタは十四歳だが、試着を始めたのは十一歳だった。新聞の小さな記事が年齢を混ぜたらしい。私が訂正しようとすると、エルナは「十一歳で働かされた子が、十四歳になって名を出した。それならなおさらです」と言った。現在の年齢だけを書けば、危険を引き受けたときの幼さが隠れる。私は実名綴りの年齢欄を、試着時と証言時の二つへ分けた。


 その場へ呼ばれていたリッタは、すぐに工房名を出してほしいとは言わなかった。「あとで怖くなったら、取り消せますか」と先に訊く。公開前なら取り下げられ、公開後も次版から匿名へ戻せるが、すでに読んだ人の記憶までは消せないと私が説明すると、エルナはもう一度署名を読み直した。


「消せないところまで聞いた上で、出します」


 強い決意という一言で片づけず、確認に要した時間と、撤回方法を説明したことも同意書へ残した。選択が重いほど、即答だけを美しく扱ってはならない。


 彼女は工房名と自分の名、どちらの公開にも署名した。フォスに続く二軒目だった。


 私は、公開用の集計と実名綴りを別に作った。集計には工房ごとの試着数と焼損だけを載せ、本人の名は番号へ替える。実名綴りには、公開へ同意した者の言葉を直さず残し、閲覧できる者と目的を表紙に定めた。


「同じ紙に書いた方が、強くありませんか」とエルナが訊いた。


「強くなります。ただ、その強さに名前を使われたくない人まで引きずられます」


「では、数字だけ都合よく使われたら」


「実名綴りが、同意した人の言葉で訂正します。二冊は離して保管しますが、片方だけで結論を出せないよう、互いの番号を記します」


 帳面を写し終えるまで、エルナは店に残った。ミナが数字を読み、私が写し、本人が原本と照合する。親方になった初日の半分を売上から切り離し、父と自分が記さなかった仕事へ使った。


 昼を過ぎると、エルナの父から使いが来た。午後の客へ挨拶するはずの新親方が戻らないので、帳面を置いてくるようにという。彼女は一度、帰る支度をしたが、写しが十八年前の頁で止まっているのを見て座り直した。


「今日の売上を失うことも、表に入りますか」


「制度変更で生じた損失ではありませんから、工房影響表には入れません。ただ、記録提供にかかった時間としては残せます」


 私が答えると、彼女は少し笑い、「何でも都合よく被害にしてくれるわけではないんですね」と言った。濡れたままだった肩が、そのとき初めてわずかに下がった。


「あなたが勇気を出したから、数字まであなたの味方になるとは限りません」


「それでいいです。味方をしてほしくて持ってきたんじゃない」


 夕刻、最後の頁を三人で読み合わせ、原本を革包みへ戻した。写しの各頁には、読み手、筆記者、照合者の三つの印が並ぶ。二軒目という一語の裏に、それだけの半日があった。


 二軒目が名を出した翌日、三軒目から手紙が来た。四軒目は工房名だけ、五軒目は親方名だけの公開を選ぶ。十日で、最初の十七通とは別に九軒が記録を出し直した。名前を出さないまま数字を提供した工房もあり、ボーデの通達に従うと再度断った工房もある。どれも同じ反応にはならなかった。


 九軒を最初の十七通へ単純に足し、二十六軒とすることはできなかった。九軒のうち三軒は、最初に匿名回答を出した工房が条件を変えて再提出したものだったからである。新規回答は六軒、再回答は三軒。回答工房の総数は二十三軒、届いた書面の総数は二十六通と、二つの数字を分けた。


 ボーデの通達に従って断った工房には、理由欄を「組合圧力」と書かず、本人の文面どおり「顧客守秘」と記した。私には保身に見えても、相手が選んだ言葉を勝手に告白へ翻訳しない。一方、公開へ転じた工房の手紙も、勇気ある九軒とは数えず、誰の証言をどこまで出すかという条件ごと一覧にした。


 壁へ貼った紙は、回答十七、無回答四十九の二枚から、初回、再回答、新規、拒否継続の四枚へ増えた。数字が動くたび、前の紙を剥がさず日付を入れて隣へ置く。最終結果だけを見れば、沈黙がどう崩れたか、誰の公開が次の返事を生んだかが消えるからだった。


 ハーロウ家に関わる衣装は、まず六着が集まった。婚礼を終えた家から借りるため、裾には保管皺があり、香草や古い木箱の匂いが残っている。私は一着ずつ人台へ掛け、触れる前に所有者の同意書を確認した。


 本来の型紙は第十一条で途切れている。ところが六着には、いずれも第十二条が縫い足され、裾が閉じていた。糸を渡す角度、返し針を一針だけ浅くする癖、終端を布の裏へ隠す位置まで同じだった。


 第一の衣は深紅の絹で、裾裏の糸だけが周囲より三年新しい。第二は銀の花弁を散らす衣で、第十二条を足した箇所だけ花弁の間隔が半分狭い。第三は何度も洗い張りされ、表からは施術が見えなかったが、裏布を所有者の許可の範囲でめくると、終端が左へ二針寄っていた。私はいつも右手の痛む夜、最後の返しを浅くし、左手で糸を引きやすい側へ終わらせた。


 一本ずつを見ると、ほかの職人にもあり得る癖だった。三つが同時に現れ、私的台帳の日付と貸出先まで一致して、初めて同一施術者の可能性が高くなる。私はケルナーに先入観を与えないよう、自分の台帳をまだ見せず、六着の縫い目だけで分類してもらった。彼は五着を同群、一着を保留とした。保留された衣は、私自身も暗い蔵で二度縫い直した記憶がある。


「全部あなたの縫い目だと、言い切らないのですか」とミナが訊いた。


「覚えていることと、現物から判断できることを混ぜません。明日、記憶は記憶として別に出します」


 自白があれば検分はいらない、としてしまえば、ほかの誰かの自白も証拠を確かめず信じることになる。私は自分に有利な慎重さだけでなく、自分を疑うための慎重さも同じ手順へ置いた。


 私の縫い目だった。


 七着目は写真記録だけ、八着目は裾の一部だけが届いた。それでも同じ癖がある。私は検分票へ「同一施術者の可能性」と書き、まだ自分の名は入れなかった。自分で自分を判定するなら、現物だけでなく、別の記録と照合しなければならない。


 ライナルト様は、作業台から三歩離れた椅子に座っていた。命じればハーロウ家へ全着の提出を求められるが、彼は一度も口を挟まない。所有者が断った衣は断ったままにし、届いた一着ごとに私たちが同意を読み上げるのを聞いていた。


 夜、私は婚家から持ち出した私的な作業台帳を開いた。誰にも見せるつもりがなかったので、家名は頭文字、日付と糸代、足した条文だけを小さく書いている。


 最初の頁には、表の作業台帳へ載せないよう夫に命じられた日の印がある。二頁目からは命令さえ書かず、自分で当然のように夜の仕事へした。一着を直すたび、花嫁が誓約不成立になるのを防いだ、家を守った、翌朝の騒ぎを避けたと理由を付けた。理由はどれも彼女にとって真実だったから、六十九まで続いた。


 けれど、この帳面には着る花嫁の名も、試着した人の名もない。あるのは婚家の頭文字と糸代と、私が足した第十二条だけである。自分の仕事を誰にも奪わせないための秘密帳が、仕事の影響を受けた人を誰一人残していなかった。その欠け方は、父の帳面へ自分の火傷を足したエルナの手を見たあとでは、以前よりはっきり見えた。


 一から数え直す。二十三で最初の年が終わり、四十七で二年目、最後の頁まで行くと六十九だった。


 ここへ自分の白い婚礼衣装を足して七十と数えるべきか、私は別紙で確かめた。自分の一着にも無資格で第十二条を入れたが、今調べている六十九着は、婚家のために他家へ貸し出し、私以外の花嫁が着た衣である。自分の婚礼衣一着と、他家の六十九着を混ぜず、無資格施術の総数は七十、調査対象となる貸出衣は六十九と記した。


 数字を大きくして罪を重く見せることも、小さくして逃げることもしたくなかった。六十九という数から私自身の一着を除き、別の家族へ渡った衣の数として残す。私は自分用の別紙を伏せ、皆の前では、現物六着、写真一件、裾片一件という今ある証拠数だけをミナと読み合わせた。台帳に六十九行あっても、六十九着すべての現物がここにあるわけではない。その差と、伏せた一着のことは、明日、自分の名とともに告げなければならなかった。


「提出された衣は、全部ここにあります」と私は言った。「日付も貸出先も一致します」


 ミナは帳面へ手を伸ばさず、ケルナーは六十九と書いた数字を見つめ、私の顔を見なかった。エルナも、今日届いた自分の工房の記録を抱いたまま待っている。


「この縫い目を入れた者を、私は知っています」


 今すぐ名を言えば、告白だけで話を終えられる。けれど六十九着を罪として出すには、閉じた婚姻と、焼かれた試着者と、欠けた型紙を別々に残さなければならない。


「明日、関係者を集めてください。私の台帳を最初から開きます」


 ライナルト様は正解を教えず、「分かった」とだけ答えた。私は六十九の次に線を引き、これ以上、同じ秘密の仕事を増やさないことを、自分の名で記した。


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