第26話 焦げたのは巻尺です
母の型紙帳は、衣装の華やかさとは無縁の本だった。表紙は手脂で黒ずみ、角は三度も別の布で包み直されている。頁には肩幅や袖丈だけでなく、途中で咳をした回数、子供が飽きて椅子を蹴ったこと、依頼人が代金を一日待ってくれたことまで、細い字で残っていた。
ライナルト様の寸法を測る前夜、私はその帳面を最初から開き直した。彼が七歳だった二十四年前、母はまだケルナーの弟子だったはずだ。王宮へ出入りした記録があるなら、師の手控えと重なる。
「第三十七件目だ」
向かいで帳簿をめくっていたケルナーが、私より先に頁を止めた。名は頭文字のLだけで、家名も身分もない。その代わり、年齢は七歳、髪は淡い金、目は灰青、そして欄外に「近くの金糸、四歩で白変」とある。
七本の麻糸を使った寸法は、同じ年に公爵家が作らせた麻の上衣の控えと一致した。その衣だけは焼失の記録がなく、三年後に袖丈が足りなくなるまで着たと、家令から借りた台帳に書かれている。
「この年、王宮へ行った弟子はマルタだけだ」
ケルナーは自分の古い手控えを脇へ置いた。師である彼にも、公爵家から頼まれた仕事の名目は「成長期児童の普段着」としか伝えられていなかったらしい。魔力過剰の王子を測ると知れば、親方が経験の浅い弟子を寄越すはずがない。身分を伏せた依頼は母を危険から守るためではなく、断る機会を奪うために使われていた。
「お前の母親は帰ったあと、麻糸を七本も買った。一本ずつ何に使うと訊いたら、子供の腕は二本しかないのに足りない、と怒っていた」
ケルナーは懐かしむようには笑わなかった。あの日、母の指に小さな水疱があったことまで覚えていたのに、王宮の仕事と結びつけなかった自分も記録へ入れると言う。知らなかった者が、あとから最初から知っていた顔をしない。それも母が帳面に教えた作法だった。
「母が測ったのでしょうか」
「字はマルタだ。だが、こいつは俺の教え方じゃない」
ケルナーの左の指が、頁の端をなぞった。母は皮膚の寸法と別に、肩は外側へ四分、襟は六分と記している。その理由の欄には焦げ跡があり、途中までしか読めなかった。
「お前の母親は、分からんことを勝手に埋める弟子じゃなかった。ここが焦げたなら、その日に使ったものを探せ」
帳面の綴じ糸を緩めると、頁の間から、灰色になった麻糸が一本落ちた。両端だけが黒く縮み、中央には三度引いたらしい墨印がある。細く折られた紙も挟まっていた。
――焦げたのは巻尺です。あなたではありません。
母の字だった。
焦げた麻糸は一本ではなかった。表紙の裏を外すと、長さの違う六本が糊で留められ、一本ごとに「首」「肩」「腕」「胸」「背」「熱の外縁」と母の字が添えられていた。七本目だけが頁から落ちたのは、最後に実寸を取った巻尺だったらしい。魔力の境を測ろうとした糸は両端から焦げ、身体に直接沿わせた一本は片側だけ黒い。母は道具を替え、立つ位置を替えながら七度の失敗を重ね、ようやく危険の形を理解していた。
私は各糸を薄紙へ挟み、元の位置を図に写した。成功した上衣だけを真似れば、母が六度やめる機会を持っていたことが消える。失敗を保存するのは、偉業を大きく見せるためではない。次の人間が同じ六度を身体で払い直さずに済むようにするためだった。
この一行だけで、七歳の子供が何を言われていたかが分かる。衣が焼け、近くの礼装が白くなれば、大人は原因を布より先に子供へ求めたのだろう。母は巻尺を焦がし、失敗したのは測る道具と方法の方だと紙へ残した。
私はその紙を持って、公爵邸へ向かった。ライナルト様は書庫で読み、二度目には声に出さなかった。
「この言葉を覚えておられますか」
「覚えている。顔は思い出せなかったが、声は残っていた」
彼は焦げた麻糸へ触れず、机の上に両手を置いた。七歳から十歳まで着られた衣について訊くと、色も形も覚えていないという。ただ、冬に庭へ出ることを止められなかった三年間だけは覚えていた。
「十一歳になった年、新しい衣を作った。完成から三日目の初着用で、十二秒もたず焼けた。それからは、長く着ることを考えなくなった」
家令が後日探したところ、母の麻の上衣そのものは公爵邸には残っていなかった。袖が短くなったあと、紋章も術式もない丈夫な子供服として孤児院へ渡され、さらに二人の子へ着継がれた記録がある。王子のために作られた一着が、身分も魔力も違う子供たちの膝を擦り切らせるまで働いた。その行方を知ると、ライナルト様は初めて、色も形も覚えていない衣へ「よい服だったのだな」と言った。
「ええ。燃えなかったからだけではありません。次の人へ渡せるところまで着られたのなら、ずいぶんよい服です」
「私だけのために作られたものが、別の子にも合った」
「寸法は直されたでしょう。でも、布は役目を替えられます」
彼はその答えを静かに受け取った。これから作る外套は彼一人にしか術式が働かない。それでも、いつか布や縫い方や失敗の記録が別の誰かへ渡る可能性まで、一着から奪う必要はないのだと思えた。
「二十六着の焼けた礼装とは別に、この一着があったのですね」
「台帳では別になっている。私の中では、同じだった。最後には着られなくなったから」
大きくなって袖が短くなることと、炎になって失うことを、彼は同じ「着られない」に畳んでいた。けれど衣装師にとって、その二つはまるで違う。身体が育って合わなくなった衣は、役目を果たした衣だった。
「その一着は、失敗ではありません」
「三年で着られなくなった」
「七歳の上衣が十歳に合わなくなるのは、仕立てが負けたのではなく、着る人が育ったからです」
ライナルト様は、焦げた一着については何度も聞かされてきたはずなのに、着終えた一着については初めて説明されたような顔をした。失う以外にも衣との別れ方があると、ようやく知らされたのだろう。
私は採寸の道具を卓上へ並べた。術式のない麻の巻尺、木の直角尺、記録紙を二部。母の熱の縁まで測る方法は、焦げた箇所が欠けていて再現できない。今できるのは、本人の身体を本人の前で測り、どこまでが分かり、どこからが分からないかを残すことだった。
「今日は身体の寸法だけを取ります。魔力の境は測れません」
「あなたの母は測った」
「母と同じ結果を、読めない手順で真似るつもりはありません。肩四分、襟六分という数字も、今のあなたに合うとは限りません」
家令が補助に入ろうとしたが、ライナルト様は自分で巻尺の端を持った。私は十二歩より内側へ入り、彼と同じ長さの麻布を挟んで向かい合う。魔力糸を身につけていなければ布は燃えないと分かっていても、昨日まで禁じられていた距離へ身体を置くと、呼吸の方が先に慎重になった。
最初に床から肩までを測り、次に背丈、胸囲、腰、腕へ進んだ。左右の肩を比べると、剣を持つ右がわずかに下がり、首から肩先までの長さも三分違う。既製の王族用型紙なら姿勢を矯正する詰め物で左右を揃えるところだが、長く立てば下がる肩こそ今の彼の身体である。私は数字を平均せず、右と左を別の欄へ記した。
「真っ直ぐ立つべきではないのか」と家令が尋ねた。
「式典の一刻だけなら、そう裁つこともできます。冬の庭を歩く外套なら、殿下が疲れたときにも襟が喉を締めない形にします」
ライナルト様は姿勢を作り直さず、普段のまま立った。測られる人を美しい型へ押し込めず、型紙の方にその人の立ち方を覚えさせる。それを許される採寸は、私にとっても久しぶりだった。
肩幅は木尺で測り、袖丈は彼に巻尺を押さえてもらう。首回りでは、私の指が襟元へ近づく前に止まった。
「ここを持っていただけますか」
「あなたが触れると、何か燃えるのか」
「私の仕事着には術式がありません。燃えません」
「では、なぜ止めた」
事実だけを言うなら、まだ触れる必要がないからだった。けれど必要の有無を考える前に手を止めたのは、近づくことを仕事の手順へ隠そうとした自分に気づいたからでもある。
「今日は、あなたが持つ方が正確です」
私はそう答え、巻尺の端を渡した。彼はそれ以上を求めず、喉元で麻布を押さえる。指先のすぐ隣に私の指があり、触れないこともまた、二人で選んだ距離になった。
襟ぐりは、巻尺を一度回した数字だけでは決めなかった。上を向き、下を向き、右を振り返ってもらい、そのたびに喉と布の間へ木札を差す。母の帳面にある「襟六分」は、おそらく熱の縁だけでなく、この動きの余裕も含んでいた。推測の数字は鉛筆で書き、確定値の墨とは分けた。
採寸紙の最後に、ライナルト様自身へ違和感のある場所を尋ねると、彼は「分からない」と答えた。三十一年間、衣が身体に合うかを確かめるより、いつ焼けるかを待ってきたから、きつい襟も重い袖も衣とはそういうものだと思っていたという。私は人台に掛けた仮の麻布を肩へ載せ、重さと可動域を一つずつ比べてもらった。着る人の感覚を取り戻すところからが、今回の採寸だった。
採寸を終えると、彼は依頼書を出した。品目の欄では「王衣」を避け、「冬季用外套 一着」と記している。
「王衣を頼まれるのではなかったのですか」
「王衣を着れば、王になれる。だが私は、王になる日より前に冬を何度も過ごす」
報酬、試作費、失敗時に残る材料の所有、途中で中止する権利まで、私たちは一つずつ決めた。彼は王族の印で押し切らず、私は恩を返すという理由で値を下げなかった。最後に、依頼人と衣装師の名が同じ紙へ並んだ。
一着分の見積もりには、布代だけでなく試験片、石室使用の人件費、医師の待機、失敗布を記録する紙まで含めた。王族相手なら高く取ったと思われぬよう削りたくなったが、未知の衣を安く請ければ、次に同じ仕事をする職人へ「名誉なのだから無償で」と押しつける前例になる。ライナルト様も、成功品一着の値だけを払う契約では失敗を隠す動機が生まれると言い、試作ごとの費用を分けて署名した。
「焦げないとはお約束できません」
「分かっている」
「一着目が失敗すれば、二着目の費用がかかります」
「払う」
「私の指が先に保たなくなれば、途中で終えます」
そこで初めて、彼の筆が止まった。それでも条件を削る代わりに、「中止した時点までの記録は双方が一部ずつ持つ」と書き足した。
王を作るための衣ではない。冬に庭を歩き、誰かと同じ場所へ立つための、一人分の外套だった。私は母の頁を閉じ、自分の新しい採寸紙をその上へ重ねず、別の綴りの最初へ置いた。




