第11話 一滴目と十五枚
薄桃の布へ落ちた雫を、清潔な手巾で吸い取った。水なら乾けば跡は残らない。それでも私は同じ場所を何度も押さえ、客へ返す前に光へ透かし、染みがないことを確かめずにはいられなかった。
「ヴェッセル家の花嫁は、どうなったのですか」
世間話をしていた商家の女房へ訊くと、彼女は待っていた質問を得たように身を乗り出した。
「式は中止ですって。裾が閉じないのは娘の徳が足りないからだと、花婿の伯母様がその場で仰ったとか。まだ十七なのに、皆の前で泣いてしまって。ハーロウ家から借りた立派な型紙でも、着る人が悪ければ仕方ないんでしょうね」
私は針へ糸を通し直した。針目は乱れず、薄桃の裾を同じ幅で進んでいく。三年間、何を聞いても手だけは止めない訓練を積んでいた。
「誓約庁からの診断書は、届かなかったのでしょうか」
「届いたそうですよ。式が終わったあとに。だから男爵様が、もっと早く知らせなかったハーロウ家を訴えるとお怒りで」
客が帰ったのち、庁の使者が配達記録を持ってきた。一通目の受領時刻は正午を四半刻過ぎていた。残る二家は衣装を着せる前に受け取り、一家は式を延期し、もう一家は別の型紙を探すと返答したという。
私は使者の前で受領票を写し、三通の診断書それぞれへ到着時刻を書き足した。一着目に間に合わなかった事実だけでなく、残る二着に間に合った事実も、同じ濃さの墨で残す。悔いだけを証拠にすれば、次も間に合わないと決めつけて、知らせる仕事そのものを諦めかねない。
三人のうち二人には、選ぶ前に届いた。一人には届かなかった。
私は直し終えた薄桃の衣を畳み、角を揃え、もう一度広げた。必要もないのに同じ作業を繰り返していると、ミナが隣の椅子を引いた。
「顔が白いです。昼も食べてませんよね」
「あとで食べます」
「その『あとで』、ヴェレナさんがここに来てから一回も来てません」
差し出された黒パンを受け取ったものの、指が開かず、掌の上へ置いたままになった。あの晩、杏色の裏地を撫で、針箱から手を引いた感触は残っている。第十二条を足す時間も、方法も、私にはあった。
「私が直せました」
「何をですか」
「一着目の婚礼衣装です。あの晩、蔵にいました。針は手の届くところにありました。それでも、縫いませんでした」
無資格の罪を増やしたくなかった。誰にも知られず自分をすり減らし、欠けた型紙だけを正しいものとして残す暮らしへ戻りたくなかった。今でも、その選択を間違いだったとは思わない。
正しいと思う選択の先で、十七歳の娘が百人の前に立たされ、本人の徳が足りないと責められた。二つの事実は、どちらかを消せばきれいに閉じるものではなかった。
「ヴェレナさん、泣いてます」
頬へ触れると濡れていた。婚家にいた三年間、一度も泣いたことがない。泣けば翌日に瞼が腫れ、細い金糸の針目が見えにくくなるから、夜中に水を飲むことまで控えていた。今日は明日の仕事へ響いても、自分で引き受ければよい。そのことに身体のほうが先に気づいたのかもしれない。
ミナは「泣かないで」とは言わず、パンを半分に割った。片方を自分で齧り、残りをもう一度こちらへ押す。
「直していたら、今も蔵にいましたか」
「たぶん。三着を閉じ、次の夜も同じことをしたでしょう」
「そうしたら、私とは会ってませんよね」
「会っていません」
「私は、それは嫌です。花嫁さんには悪いけど、私が会えないほうがよかったなんて言われるのも嫌です」
勝手なことだと付け加える声は、謝っていなかった。そのわがままを向けられたことで、私はようやくパンを一口食べた。固い皮が歯に当たり、噛むうちに唾液を吸って少しずつ柔らかくなる。
「受験料、私が貸せます」
話があまりに急に変わり、涙が止まった。
「銀貨十五枚です」
「知ってます。三年分の貯めたお金が十九枚あります。四枚残れば、妹に送る分と、春までの靴代はどうにかなります」
「受け取れません。あなたの三年間です」
「貸すんです。あげません。布を読める人が資格を取れば返せるって、私は考えました。ヴェレナさんが自分ではそう思えなくても、貸す側がそう思うのは勝手でしょう」
三年間、私は誰からも何も借りないようにしていた。借りれば、返せない日に手や時間を要求される。実家の屋根も婚家の名誉も、先に受け取ったものの代金として私へ渡された仕事だった。
しかし、借りなければ試験までの宿代と受験料を同時に残せない。何も始まらないことを知りながら、過去と同じ形になるのが怖いという理由だけで断るのも、ミナの判断を奪うことになる。
「条件を、二人で書いてもよろしいですか」
「返す日とかですか」
「金額、返済期日、利息。それから、返せなかったときに私の労働や道具を取り上げる代償条項は入れません」
「それじゃ、取りっぱぐれます」
「取りっぱぐれます。その代わり、返さなかったという紙を誰にでも見せられます。私は名前で仕事をしたいので、それをされると困ります」
ミナは一度ぽかんとし、それから鼻を鳴らして笑った。
「脅されてるの、借りるほうじゃないですか」
「そのように作ります」
貸主ミナ・ハルト、借主ヴェレナ・ノルデン、銀貨十五枚。返済は試験の合格発表から六十日以内、不合格でも同じ期日とする。罰や魔法を入れない紙へ二人で署名したところで、奥からケルナーが口を挟んだ。
「立会人は要るか」
「お願いできますか」
ケルナーは覚書を左手で引き寄せ、返済日より先に、ミナの残金を確かめた。十九枚のうち十五枚を貸せば、病気や失職があったときに足りないと指摘され、ミナは作業台の下から小さな帳面を出した。妹へ送る銅貨、宿の共同炊事代、春に靴底を替える費用まで、月ごとに分けてある。
「考えなしではありません。四枚を割ったら貸しませんでした。ヴェレナさんが合格すれば返るし、落ちても、教わる一日ぶんは残ります」
「私が逃げたら」
「名前で仕事をする人が、銀貨十五枚で王都から逃げるかどうかも考えました。逃げたら、爺さんの言う通り見る目がなかったってことです」
信じる、と言われるより、計算したと言われたほうが受け取りやすかった。私も財布を二つ、机へ置いた。一つには試験のため残してきた自分の銀貨十五枚、もう一つには、宿代と食費と、店で得た給金が入っている。受験料だけなら以前から払えた。だが差し出した翌日に宿を失えば、四十日後の試験まで辿り着けない。ミナの十五枚が加わって初めて、資格と暮らしのどちらかを捨てずに済む。
「借りたお金を、受験料の袋へ入れます。私の十五枚は、試験日まで働いて暮らすために残します」
「同じ銀貨なのに、逆じゃないんですか」
「同じだから、どちらでもいいのです。けれど、あなたから借りた十五枚で受ける、と覚えておきたい」
ミナは少し照れたように帳面を閉じ、ケルナーは二人の判断を遮らず、立会人の欄へ短い署名を入れた。
「無利息は贈与と見られることがある。利息を取れ」
「一分なら銅貨十五枚ですよね。だったら、お金じゃなくて一日分、術式を教えてください」
ミナの提案を、そのまま覚書へ足した。利息として年に一日、術式の講義を行う。私が生まれて初めて、自分のために作り、相手と条件を変えた条項だった。
銀貨十五枚は、小さな布袋に入れると驚くほど重かった。受験料を別に包み、宿代の財布と混ざらないよう、自分の鞄の底へ縫いつける。ただし縫ったのは普通の麻糸で、魔力は通さない。
翌日から、現役衣装師の推薦を求めて工房を回った。最初の一軒では、名前を告げただけで組合長ボーデの通達を見せられた。二軒目では、仕事を見ずに「軍の礼装を切った方は無理です」と言われた。三軒目の親方はベルタの記録を読み、よい仕事だと認めたうえで、推薦者まで事故の責任を負わされれば十五人いる弟子の給金を守れないと断った。
四軒目は舞踏衣装を専門にする店だった。主人は、私が広間で糸を引いた瞬間を見ており、「勇気は買うが、客の前で家の型紙を暴く人は置けない」と言った。壁に掛かる菫色の衣装は、踊るたび袖へ星が散る見事な術式だったが、脇の縫い代へ検査票がきちんと付いている。自分の店で確かめているからこそ、他人に確かめられる危険を嫌うのだろう。
五軒目では、親方でなく会計係が応対した。推薦に伴う保証金は銀貨五十枚で、私が問題を起こせば没収される。六軒目の女主人はベルタの外套を聞き、貧しい客へ三つも選択を出すのは残酷だと言った。「払えないものを見せられれば、自分の貧しさを二度知るでしょう」。私は反論できなかった。それでも、払えないと決めて安い繕いだけを差し出すほうがよいとも思えず、記録へその異論を書き足した。
七軒目は軍の下請けだった。入口にヨルクと同型の赤い礼装が十着並び、両脇の逃がし口へ、組合の指示で黄色い仮札が結ばれている。少なくとも、ほつれとして縫われることは減る。親方は私の目を見ず、「札を付ける仕事で三日、納期が遅れた」とだけ言って推薦を断った。助かった者と、増えた手間は、どちらも同じ衣装に残っていた。
八軒目の老衣装師は仕事を最後まで読み、推薦状の用紙まで出したあと、署名欄へペンを置けなかった。息子が来春二級を受けるため、組合長と争えないという。私は白い用紙を責めず、読んだ印だけを記録へもらった。
断り方は違っても、扉は同じ方向へ閉じた。五つの理由を帳面へ写し、裾の泥を宿で落とし、翌朝また訪ねる。九軒目の工房だけは、受付で私の名を聞いた若者が奥へ消え、初老の親方を連れて戻った。
親方は眼鏡越しに左腰の裾飾りを見てから、椅子を勧めることなく言った。
「広間で糸を引いた方ですな。私はヨナス・レーマーです。あなたが来ると思っていました」
「では、私の仕事を見ていただけますか」
「見れば、断りにくくなる。今日はお帰りください」
九つ目の扉も閉じた。銀貨十五枚は手に入ったのに、その金を受験料として差し出すための署名は、まだ一つもなかった。




