第10話 依頼ではない話
四日後、紋章のない黒い馬車がもう一度店へ来た。同じ従僕が差し出した依頼票には、今度も依頼人の名がない。けれど、私には行き先も、地下に並ぶ衣装の持ち主も分かっていた。
「また銀貨二枚ですか」
ミナは、台へ置かれた硬貨を光へ透かすように持ち上げた。
「今日はまだ、何をするか伺っていません」
「何もしなかったら返すんですか」
「何もしなかったと、先方が判断されたなら」
「王都でいちばん高いお茶を飲みに行く顔ですね、それ」
知られてはいけない名前を口にしないまま、ミナは出張鞄へ巻尺と薄紙を詰めた。ケルナーも行き先を訊かず、私が前回書いた二十六着の診断控えを渡してくれる。訊かなければ答えずに済むという気遣いを、この店へ来てから何度か受け取るようになった。
屋敷で通されたのは、地下ではなく書庫だった。壁の四面が年代順の綴りで埋まり、中央の机には茶器が二つと、焼けた濃紺の礼装が置かれている。
「先日は、二十六着すべてが小さいと言ったな」
ライナルトは前回と同じ麻の上衣を着ていた。袖口には何度も解いて縫い直した跡があり、擦れやすい肘だけ別布で裏打ちされている。王弟の衣としては粗末でも、柔らかな麻を大きめに裁ち、魔力を通さないことで身体を締めつけない実用品だった。
「すべて、ご本人へ触れずに作られた寸法です。けれど今お召しの上衣には、着続けた身体の形が残っています。こちらを測らせていただければ、前回の診断を確かめられます」
「着たまま、あなたが測るのか」
問い方に、拒絶より警戒があった。衣装師たちはこの人の魔力を恐れ、近づかなかった。一方で、近づくと決めた者は、本人の意向まで確かめず腕や肩へ手を置いたのかもしれない。
「三つ方法があります。私が巻尺を当てる。ご自分で測り、数値を読んでいただく。上衣を脱いでお借りし、平らな台で測る。どれでも診断できます」
彼は少し考え、老家令へ衝立を用意させた。上衣を脱いで麻の中衣へ着替え、折り畳んだものを自分の手で机へ置く。
「三つ目にする。あなたが近づけるかどうかを、私の衣で試したくない」
私が焼ける可能性を、本人が先に負わないと決めた。誰かのために危険を引き受けることだけが誠実だと思っていた私は、その選び方をすぐには理解できなかった。
麻の上衣を裏返し、肩幅、首回り、袖の付け根を測る。焼けた濃紺の礼装と重ねると、肩は左右合わせて二指、首回りは一指近く違った。二十六着の中でも古いこの礼装は、魔力へ耐えるため生地を何重にもしたせいで、内側がさらに狭くなっている。
上衣には、右の脇だけ小さな三角布が足されていた。表からは脇の影へ隠れる場所で、腕を前へ出したときだけ開き、戻せば畳まれる。左肩の縫い代は半指広く、襟の後ろにも余りがある。ただし、縫った麻糸の太さと色は箇所ごとに違い、一人が採寸して仕立てた仕事ではない。窮屈になるたび、着る本人の訴えに応じて、屋敷の針仕事をする者が少しずつ足したのだろう。
麻糸は乾いており、縫い目をほどいて型紙へ戻せば切れてしまう。私は薄紙を下へ滑らせ、縫い線ではなく、長く着たことで曲がった布目を写した。右の三角布には青、引かれる肩には赤、元の裁ち目には黒。これは正確な採寸票ではない。それでも、左右対称の原型と、実際に動いた一人の身体とのずれは見える。
「一度、着て動いていただけますか。こちらからは触れません」
ライナルトは衝立の向こうで上衣を着直し、言われたとおり、机の本を取る高さまで腕を上げ、背へ回し、椅子へ座った。右腕を前へ出すと三角布が開き、左足へ重みを移す癖に合わせて裾が半寸だけ斜めになる。布が身体を真っ直ぐに見せるのではなく、傾いた動きを邪魔せず、最後に裾だけを水平へ戻していた。
「この衣装をそのまま複製することはできますか」
「普通の上衣としてなら。術式衣装へ同じ寸法を移すことは勧めません。この麻は余ったぶんだけ自然に逃げますが、魔力の流路には、余りがどこへ動くかまで決める必要があります。これは診断の比較には使えても、完成した型紙ではありません」
「完成した衣へ、先の変化まで入れるのか」
「変わらない身体に誂えることはできませんから」
彼は右脇の継ぎへ指を入れ、開く幅を確かめた。その仕草には、王家の古着を惜しむというより、自分に合わせて誰かが残した判断を失いたくない人の慎重さがあった。
「前の診断で間違いありません。この上衣に残った引きと同じ余りを取り、改めて今の身体を測れば、日常礼装の焼損は減らせます。ただし、王衣については別です」
「なぜ、これだけ合う」
「合うように仕立てられたのではなく、大きめの麻が着るうちに馴染み、不足した場所へ布を足してきたからです。それに魔法がありません。寸法が少しくらい違っても、熱へ変わらず、皺として逃げられます」
誰が三角布を足したのか、彼は答えなかった。私は質問を重ねず、麻と濃紺の差を薄紙へ写す。衣装の話として来たのだから、話したくない人の名まで縫い込む必要はない。
診断を終えても、ライナルトは席を立たなかった。老家令が新しい茶を注ぎ、彼は器へ手を伸ばす前に言った。
「今日は、直しを頼むために呼んだのではない」
「では、何のご用でしょう」
「あなたが何を選ぶ人なのか、もう少し知りたい。私には、一級衣装師を何人でも呼ぶ金と権限がある。だが二十六着のあと、誰も私に、どう測られたいかを訊かなかった」
上衣を脱ぐ三つの方法を示したことを言っているらしい。私にとっては、ベルタへ教えられたばかりの手順だった。
「私はずっと、腕のよい職人を探していた。十一人が、素材を替えろ、着る時間を減らせ、王衣を諦めろと、それぞれ私の代わりに決めた。必要だったのは、私を直そうとしない人間だったのかもしれない」
「私は、まだ何も直せません。資格がありませんから」
「だから頼まない」
予想と逆の答えだった。彼は麻の上衣をこちらから受け取り、自分で袖を通す。
「私が今、王衣を頼めば、あなたは断れるか」
断るべきだとは分かっている。二年しか残らない手で、二十一本の流路を持つ王衣へ触れるなど無謀だった。それでも、国の次を左右する人から求められれば、必要とされたことを理由に頷く自分が想像できた。
「自信がありません」
「では、まだ頼めない。資格を取り、自分の名で料金を請求し、受ける仕事を選べるようになった日に、改めて依頼する。そのとき断られても、私はあなたをここへ連れてくる命令を出さない」
「断れば、ほかの工房へ仕事を回すとも、おっしゃいませんか」
家令が茶器を置く音を立てた。王家の仕事を断った者へ次の注文を出さないことは、罰ではなく当然の判断として行える。命令を使わなくても、私を選ばせる方法はいくらでもある。
「それを約束すれば、今度はあなたが何をしても私が取引を続けると、こちらが縛られる。だから約束できない。ただ、断った一度を理由に、ケルナーの店や、あなたへ仕事を回した者を外すことはしない」
「十分です」
「十分なのか」
「先のすべてを閉じる契約より、何をしないか一つずつ確かめたほうが、私は信じられます」
彼は考えるとき、茶を飲むのを忘れるらしい。家令が二度取り替えようとした器は手つかずで、三度目にようやく口へ運ばれた。冷えていたのか、眉がほんの少し寄った。
「依頼でない話へ、銀貨二枚は頂けません」
「麻の上衣を診た」
「その分は、出張料を含めて銀貨一枚です」
「残りは」
「次に正式な仕事を受けたとき、お支払いください。受けなければ、お返しします」
「あなたは、私が次を頼むと決めているのでは」
「頼むかどうかは公爵殿の選択です。受けるかどうかは、将来の私へ残します」
銀貨一枚を机へ返すと、家令は不承不承ながら受領票を書いた。金を返して困るのは今の私だが、会話まで依頼料で買われた形にすれば、次に会う理由も仕事へ閉じてしまう。それは嫌だと自覚したことのほうが、硬貨を手放すより落ち着かなかった。
王弟の口約束に、魔法の罰はない。それでも空の抽斗には、私が破れる紙が一枚入っている。完全でない約束を、完全でないまま守ろうとする人なのだと思った。
「資格を取るには、推薦が二名必要です。私を知る現役の衣装師がいません」
「ならば、私が二人に命じよう」
あまりに自然な返事で、私は一度、礼を言いかけた。二人の署名が手に入れば、残る手を自分の名で使える。宿代を数える必要も減る。
「いいえ。お願いいたしません」
「理由を聞いてもいいか」
「推薦人は、私が不正をしたとき連帯して責めを負います。私を知らない方が、命じられて『知っている』と書けば、中身のない推薦になります。第十二条のない裾と同じです」
言い終えてから、自分が王弟の申し出を婚家の欠陥と同じ形だと言ったことへ気づいた。頭を下げようとすると、彼は手で制した。
「私は三十一年、自分の代わりに決められることへ腹を立ててきた。初めて誰かの役に立てそうになって、同じことをしたらしい」
「お気持ちは、ありがたく受け取ります」
「気持ちがよければ、仕組みの欠陥が消えるわけではない。推薦は手配しない」
彼は自分の善意を庇わず、机の上から引き取った。その速さに、私はむしろ戸惑う。
「あなたは、人の言葉を読むのがお上手ですね」
「術式よりは。人は断りたいとき、たいてい理由を一つしか言わない。早く終えたいからだ。理由をいくつも並べる者は、断るためでなく、受けられる条件を探していることがある」
まだ訪ねてもいない衣装師たちへ自分の仕事を見せ、断る理由を聞くところから始めなければならない。その作業まで王弟に任せるわけにはいかなかった。
「次にお会いするときまでに、少なくとも一度は、自分で頼んでみます」
「会う予定を、私が決めても?」
「依頼でなければ」
言ってから、二人ともわずかに笑った。仕事でも契約でもない次を約束したのは、私には初めてだった。
店へ戻ると、客の女が裾直しを待ちながら、ヴェッセル男爵家の婚礼の噂をしていた。十七歳の花嫁が誓いを口にし、両家が裾へ触れた瞬間、金糸が人前ですべてほどけたという。
私はまだ外套を脱いでいなかった。袖を濡らしていた雪解けの雫が、作業台へ一滴だけ落ち、直しかけの薄桃の布へ暗い染みを作った。




