吸入薬の残り
【本文】
地盤沈下に巻き込まれた人はいなかった。
警察と消防がボウリング場を封鎖したが、地下空間は確認されなかったとニュースは伝えた。湊には、現場写真の奥に白い数字『2/3』が見えた。
その晩、結衣が軽い発作を起こした。
季節の変わり目には珍しくない。吸入薬を使えば呼吸は落ち着いた。それでも千鶴が予備を確認すると、未開封は一本しかない。次の受診日は二週間後で、今の社会なら不足する理由はなかった。
「迷宮へ避難するなら、薬も持ち込まないといけないね」
結衣は明るく言ったが、湊にはその言葉が重かった。
第一迷宮の一覧には治療設備がある。必要ポイントは二千。薬を作れるとは書かれていない。モモの回復も喘息へ効くか分からず、試すために発作を待つなど論外だった。
翌日、小春と環が迷宮内へ簡易医療箱を運び込んだ。吸入薬、解熱剤、抗菌薬、包帯。期限と数量を台帳へ書き、地上の在庫と分ける。
薬は名前が似ていても用量が違う。停電した暗闇でも取り違えないよう、箱には色だけでなく凹凸の異なる印を貼った。結衣にも触って判別してもらい、配置を決めた。
「ポイントより、今ある物を正確に数えるほうが先」
環は棚に番号を貼った。
湊は《領域編集》で空気の流れを確かめた。壁の内側に細い経路がある。出口を一つ開くと、外気を取り込み、別の穴から押し出せた。ただし鼓動が鳴るたび風向きが僅かに乱れる。
結衣の薬を一本、医療箱へ入れた。
妹を守るための備えが、妹から薬を遠ざけるようで迷う。千鶴は同じ薬を翌週必ず補充すると約束した。
その夜、沈んだボウリング場の地下から、青い光が立ち上った。
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