薬品無用(4)
ロラン家の屋敷に、客が来ることはほとんどない。理由は簡単である。シレーヌが、貴族の間でも筋金入りの嫌われ者であるからだ。
しかし、今日は朝から来客があった。
「おや、あなたが直接来るとは珍しい。どうかなさったのですか?」
呼び鈴の音を聞き、扉を開けたのはモリアーティだ。その顔には、意外そうな表情が浮かんでいる。
なぜなら、彼の目の前にいるのは憲兵のモンドだったからだ。
「ああ、野暮用だよ。ちょっと入らせてもらっていいかい? ここじゃあ話しづらいんでな」
「ええ、構いませんよ」
モンドは、地下室に入っていった。すると、さっそくインジャン・ジョーが声をかける。
「おいおい、誰かと思えば悪徳憲兵じゃねえか。まさか、ウチに小遣いせびりに来たのか?」
そう、モンドは憲兵の中でも手抜きの多い昼行灯として知られている。賄賂さえもらえば、大半の罪は揉み消してくれる。『虎の穴』や『黒い牙』といった裏の組織とも顔馴染みだ。
そして、シレーヌら闇の処刑人とも付き合いが深い。
「違うよバカ、仕事の依頼だ」
「仕事?」
訝しげな表情を浮かべるジョーに、モンドは渋い表情で頷く。
「そう、仕事だ。非人街によ、パンドラって名の売春宿がある。変態貴族様の御用達だ」
彼の言葉に、ボルトは不快そうな表情を浮かべた。
非人街は、憲兵も近寄らないような場所だ。その分、非合法な商売がやりやすい。ベルサーユの表通りには出せない店も、非人街ならば堂々と営業できるのだ。
パンドラという店も、悪趣味な連中の溜まり場なのであろう。
「ああ、その店なら知ってるぜ。まさか、俺たちに用心棒をやれ、なんて言うんじゃないだろうな?」
ジョーの問いに、モンドは苦笑した。
「あいにくだがな、パンドラはもう営業できなくなっちまったんだよ。昨日、化け物に襲われたんだ。店はぶっ壊されたし、店員も殺された。客が無事だったのが、不幸中の幸いだよ」
「で、犯人の目星はついているのですか?」
そっと口を挟んだモリアーティに、モンドは首を横に振ってみせた。
「目撃者の話では、犯人は肌が緑色の化け物だとよ」
「緑色? となると、ゴブリンですか?」
尋ねたボルトに、モンドは口元を歪め答える。
「ゴブリンだったら、楽だったんだがな。店を襲ったのは、とんでもねえ怪物だよ。弓で射られようが剣で切られようが、あっという間に治っちまう。しかも、力はオーガー並……いや、それ以上だ。人間を一撃で撲殺し、鉄の門を外してぶん投げちまう。はっきり言って、実戦経験のない憲兵じゃ捕らえられねえよ」
「そこで、我々に白羽の矢が立った。化け物には、化け物をもって制す……というわけですかな?」
モリアーティの言葉に、モンドは苦笑しつつも頷いた。
「そういうことだ。金は弾むぜ」
「わかりました。まずは、調査をしてみましょう。ジョーさん、頼みましたよ」
モリアーティに言われ、ジョーは頷いた。
「ああ。あそこは、俺の庭みたいなものだからな」
答えたジョーに、ボルトが不安そうに尋ねる。
「相手は人間ではないのですよ。私も同行しますか?」
「へっ、心配すんな。いざとなったら逃げるだけよ。俺はな、逃げ足も速いんだ
そう言って、ジョーはニヤリと笑った。
昼になると、ジョーは非人街のパンドラへと足を運ぶ。だが、着いた途端に唖然となった。
彼の知っているパンドラは、外見は地味だが内装は派手であった。悪趣味な絵画が飾られ、裸同然の格好をした女たちが料理の乗った金の盆を持ちウロウロしている。客は、気に入った女がいれば二階に連れていく……という寸法だ。
ところが、今は見る影もない。レンガ造りの壁が壊され、椅子やベッドなどが無造作に放り出されている。絵画は破られ、シャンデリアは粉々に砕かれ地面に転がっていた。
周囲にはロープが張られており、憲兵がふたり立っている。もっとも、憲兵の顔に覇気はない。さっさと帰りたい、とでも言わんばかりの態度だ。
憲兵はともかくとして、この惨状は恐ろしいものだ。やったのが一匹の怪物だとすれば、恐ろしい腕力である。ボルトに勝るとも劣らないレベルだろう。
こんな奴が現れたら、どう戦うか……。
そんなことを考えつつ、店の周囲を歩いていたジョーだったが、その足が止まった。見覚えのある顔を見つけたのだ。
ひとりの男が、真っ青な顔で破壊された店を凝視している。白いローブを着た診療所の魔術師だ。名前はジキルであり、ジョーも顔と名前だけは知っていた。
ジョーは近づき、声をかける。
「おい、えらく顔色が悪いな。大丈夫か?」
すると、ジキルはビクリと反応した。恐る恐る、ジョーの顔を見上げる。
ジョーは覚えていた。セーラがチンピラに絡まれていた時、この男が隠れて見ていたことを……つい苛立ってしまい、キツい言葉を吐いたことも忘れていない。
「なあ、ここで化け物が暴れて何人か殺されたらしいが、何か知らないか?」
無論、ジキルが事件に関係しているなどとは思っていない。ただ、この前はキツいことを言ってしまった。その埋め合わせでもできないか……という気持ちから、声をかけたのである。
だが、ジキルの表情がみるみるうちに変わっていく。顔色はさらに悪くなり、額には汗が滲んでいた。
明らかにおかしい。ジョーの勘は、こいつは何か知っていると告げていた。
しかし、ジョーの理性はこう言っている。ジキルは、どう考えても無関係だ……と。そしてジョーは、理性の方を信じてしまった。
「お前、顔色悪すぎるぞ。早く帰って寝ろ。診療所の先生が病気だなんて、シャレにもならねえからな」
そう言うと、ジョーは去っていった。とりあえずは、街の人間から情報を集めようと考えたのだ。
ジョーは気づいていなかった。彼の背中を見つめるジキルの目には、怯えだけでなく羨望と嫉妬の感情があった。
◆◆◆
ジキルは診療所に帰ると、ベッドに入った。まだ日は高いが、起きているのは嫌だった。眠ることで、全てを忘れてしまいたかったのだ。
昨日の夜、ジキルは薬を飲みハイドへと変身した。
その後のことは、断片的にしか覚えていない。それでも、はっきりとわかっていることがある。
あのパンドラという店を壊し、従業員を殺害したのは自分なのだ。
ジキルは目を閉じ、眠ろうとした。だが、眠ることができない。
その時、声が聞こえてきた。
「おい、またあいつと会ったな」
違う。
ここにいるのは自分だけだ。声など、聞こえるはずがない。
これは幻聴だ。騙されてはいけない。
「聞いてんのか? なあ、無視すんなよ。昨日は楽しかったろ?」
バカを言うな。
楽しいはずがない。店を壊し、何人もの人を殺した。断片的ではあるが、はっきり覚えている。
自分は罪人だ。
「無視すんなよ。楽しかったんだろ? 認めろよ。お前は、暴力が大好きなんだよ。ついでに、人殺しも大好きだ」
嘘だ。
暴力は嫌いだ。人殺しも嫌いだ。
「はっきり言うぞ。俺は、お前自身なんだよ。どんな凄い詐欺師でも、自分をごまかすことはできないんだ」
「違う! お前はハイドだ! 私とは違う者だ!」
思わず叫んでいた。しかし、ハイドは止まらない。
「思い出してみろ。物をぶっ壊した時、どんな気持ちだった? 人を殴り殺した時、お前は笑ってたよな?」
「私は笑っていない。笑っていたのは、お前だ」
「だからぁ、お前は俺なんだよ。俺が笑ったってことは、お前が笑ったってことなんだよ」
「そ、そんな……」
ジキルは、両手で耳を塞いだ。それでも、ハイドの声は聞こえてくる。
「このままでいいのか? 早くしないと、セーラをあのリンゴ野郎に取られちまうぞ」
その時、ジキルの頭にあの男の姿が浮かぶ。高い身長。筋骨逞しい体。鋭い表情。
雄としての魅力は、あの男の方が圧倒的に上だ。
ジキルの妄想は広がっていく。セーラが、あの男に抱きついていく姿が浮かんだ。
直後、軽蔑の眼差しでジキルを見つめる──
ジキルは立ち上がった。すぐさま棚に行き、緑色の小瓶に手を伸ばす。
だが、その顔に苦悶の表情が浮かんだ。これを飲んだら、もう戻れなくなってしまうのだ。
ジキルは、すんでのところで手を引っ込めた。代わりに、眠り薬を飲み込む。すぐにベッドに入り、眠り込んだ。
どのくらいの時間が経っただろうか。
突然、ジキルはムクッと起き上がった。目は開いているが虚ろであり、顔つきもおかしい。まるで、目を開けたまま眠っているようである。
ジキルはフラフラ歩き、棚の小瓶に手を伸ばす。ハイドへと変身する薬だ。
次の瞬間、それを一気に飲み干した。




