薬品無用(5)
「はんはんはーん、はんはんはーん」
学園にて、休み時間に校庭を歩いているシレーヌ。しかし、後ろからは耳障りな鼻歌が聞こえていた。
「ジャック、その鼻歌は何とかならないのかしら?」
皮肉をこめた言葉に、物陰からジャックが姿を見せる。そう、彼は影となりシレーヌの身辺に潜んでいるのだ。
「そんなこと言わないのん。お嬢様も一緒に歌えば楽しくなるっチャ。ほら、はんはんはーん、はんはんはーん」
「そんなものを歌うくらいなら、蛙の合唱に加わった方がマシですわ」
「もう、お嬢様は意地悪なのんな」
プクーッと頬を膨らませるジャックに、シレーヌはそっと近づいていった。これから、聞かれてはマズい話をするのだ。周囲に人の気配はないが、万一ということもある。
「それよりも、緑色の怪物の件はどうなったの?」
「昨日の夜も出たっチャ。今度は、大通りで暴れたのん。大勢の人に見られたのんな」
「そう……となると、早いうちに始末しないとね」
言った時、シレーヌの目は妙なものを捉えた。白いローブを着た青年が、学園内に入って来たのだ。白いローブを着られるのは、治癒魔道士として認められた者のみである。したがって、あの青年は魔道士だ。
しかし、魔道士が学園に何の用なのだろう?
「あの来客は何者かしら?」
思わず口にしたシレーヌに、ジャックが勝ち誇ったような表情で答える。
「僕、知ってるのんな。知りたい?」
挑発するような声音だ。
「知ってるなら、さっさと教えなさい」
「ふふふ……知りたいんだったら、僕のほっぺにチューするのんな。そしたら、教えてあげるっチャ」
そんなことを言いながら、ジャックは左の頬を突き出してくる。どうやら本気らしい。
だが、シレーヌは鼻で笑った。
「あら、そう。教えてくれないのね。となると、今回の仕事からあなたを外さなくてはならないわ。残念ねえ、緑色の怪物はさぞかし突き刺しがいがあったでしょうに……でも、仕方ないわね。わたくしとモリアーティ、それにボルトとジョーの四人で片付けるわ。あなたは、ひとり寂しくお留守番ね」
途端に、ジャックの表情が変わる。
「冗談なのん! 冗談なのんな! すぐ教えるのん! あれはね、お薬の先生なのん!」
「お薬の先生? どういうこと?」
「非人街で診療所をやってるジキル先生なのんな。貧乏な人にも安く薬を出している、とってもいい先生だっチャ」
「ふーん。そのいい先生が何しに来たのかしらね」
訝しげな表情を浮かべるシレーヌに、ジャックは訳知り顔で答える。
「どうせ、ドケチのミンチンが薬代を安く済ませようとしてるんじゃないのん?」
「ああ、それは有り得るわね。そういえば、ジョーは今日も非人街に行ってるの?」
「うん、インジャンは真面目に働いてるのんな」
その頃、ジョーは非人街にいた。鋭い表情で、地面を見て回っている。
「どういうことだ? この足跡、診療所の辺りで消えてるぞ」
そう、緑色の怪物ことハイドの特徴ある足跡は、他の場所ではあまり見かけない。診療所の周辺で、多く見つかっているのだ。
ジョーは、あることを思い出していた。診療所の魔道士・ジキルに会った時の感覚だ。
あの時、ジョーの勘はジキルが怪しいと告げていた。しかし、以前からジキルの良い噂も聞いていた。貧乏人からは、金を取らず無償で治療してくれる……という噂だ。
さらに、セーラがチンピラに絡まれていた時、助けたかったが怯えていて動けなかった姿も知っている。
ジョーはセーラを助けた後、ジキルに対し厳しい言葉を放った。感情的になっていたせいだろう。しかし今は、彼に投げかけた言葉に負い目を感じていた。
そういった様々な要因が、ジキルに対する疑念に蓋をしてしまった。深く追及せず、彼を放置してしまったのである。
しかし、この足跡を見るに……どうやら、ジョーの勘は正しかったらしい。
ジキルの家に、あの化け物がいるのか。あるいは、人狼のように夜になると変身するのかもしれない。
となると、奴の診療所を探るしかない。だが、その前にやることがある。ジョーは、パンドラのあった場所に行った。見張りの憲兵の襟首をつかみ、そっと囁く。
「おい、今すぐ詰め所に行ってモンドを呼んで来い。でないと、お前の頭の皮を剥いじまうぞ」
◆◆◆
夕方になり、学園から生徒たちが帰っていく頃、ジキルはミンチン学園長と対面していた。
彼は様々な薬を取り出し、ミンチンに見せる。
「私なら、これらの薬を格安で作ることができます。どうでしょうか?」
精一杯、愛想よくしたつもりだった。しかし、ミンチンの態度は冷たいものだった。
「そう、だったら明日から持ってきなさい。ただし、これからは裏口を使うことね。今度、正門から来たら取引は中止よ」
「は、はい?」
あまりの態度に、思わず聞き返したジキル。しかし、ミンチンの態度は変わらない。
「聞こえなかったのかしら? では、もう一度言います。正門から来るのは、今後は止めていただきます。この由緒正しきミンチン学園に、あなたのような身分卑しき人間が出入りするのは好ましくありません。次からは、出入りする際には裏口から来てください」
ジキルは、そっと唇を噛みしめた。
実のところ、ジキルはこの女とは以前にも会ったことがある。王宮魔術師団にいた時、パーティーの席に現れたのだ。団長であるラスプーチンにペコペコし、揉み手でお世辞を言っていた姿を、はっきり記憶している。
さらに先輩の魔術師たちが「また来たぜ、あの強欲オバハン」と言っていた。あちこちのパーティーに顔を出しては、学園への寄付を募っているのだという話も耳にしている。
その強欲オバハンに、こんな態度を取られるとは……。
「は、はい、わかりました」
不快だが、こう答えるしかなかった。
その時、応接間の扉が開く。入ってきたのはセーラだった。汚れた作業用の服を着て、手にはモップを持っている。
ジキルの頬が紅潮する。しかし、セーラは彼のことなど見ていなかった。
「ミンチン先生、トイレ掃除終わりました」
セーラは、疲れた表情で言った。すると、ミンチンの目が吊り上がる。
「今、お客様が来ているわよね。見えないの?」
冷酷な口調だ。セーラを見下ろす目には、怒りと憎しみがこもっている。
対するセーラは、怯えた顔つきになった。
「え? あ、はい、見えています。どうも、こんにちは」
セーラは、他人行儀な態度で挨拶をした。
ジキルは、思わず表情を歪める。セーラとは、つい最近会って話をした。彼女のことを忘れたことなどない。
にもかかわらず、セーラの方は覚えていなかった。
唖然となるジキルとは対照的に、ミンチンの顔つきはさらに険しくなっていった。
「はあ!? 挨拶しろなんて言ってないわよ! お客様の前で、そんな汚らしい格好を晒すなと言っているのよ! それすらわからないの! あなたは生まれたての赤ん坊なのかしら!」
怒鳴りつけるミンチンの前に、セーラは青くなり頭を下げる。
「す、すみません!」
「すみませんじゃないわよ! このクズ!」
その時、ジキルは立ち上がった。
「ちょ、ちょっと! い、言い過ぎでは……」
そこで言葉が止まった。ミンチンに睨みつけられたのだ。
「あなたには関係ないことですわ。用が終わったのだから、さっさと帰ってくださらない? ここは、あなたのような身分卑しき者のいる場所ではないのよ」
その言葉に、ジキルはうつむいた。言い返したい。だが、胸がドキドキし足は震え舌はもつれている。
駄目だ。セーラを助けられない──
次の瞬間、ジキルは応接間を飛び出していった。学園内にあるトイレに駆け込む。
自分が情けなくて仕方なかった。下種な俗物女にあんなことを言われ、何もできなかった。
しかも、セーラは自分のことを覚えていなかった──
ジキルは、震える手で小瓶を取り出す。どんな手段を使ってでも、この気分を何とかしたかった。
次の瞬間、ジキルは薬を飲んだ。




