薬品無用(6)
夕方になり、教室で帰り支度を始めていたシレーヌ。周りには誰もおらず、残っているのは彼女だけだ。ジャックのバカ話に付き合っていたら、すっかり遅くなってしまったのである。
その時、突然ジャックが教室に入ってきた。
「お嬢様! ヤバい気配がするのん! 気をつけて!」
「どうしたの!?」
シレーヌは聞き返した。ジャックは、普段はバカばかり言っている。しかし、危機を察知する能力には長けているのだ。
今のジャックの表情は、真剣そのものである。
「わかんないのん! 僕、見てくるっチャ!」
言うが早いか、ジャックは窓から飛び出していった。
途端に、校庭から凄まじい咆哮が聞こえてきた。シレーヌは、咄嗟に窓から飛び降りる。教室は二階だが、この際そんなことに構ってはいられない。
校庭に飛び降りると、シレーヌはさっと受け身を取り着地した。が、その表情が歪む。
校庭には、恐ろしい怪物がいた。ボルトと同じくらいの大きさであり、皮膚は緑色だ。長い髪は金色で、剥き出しの体は筋骨隆々としている。下半身に腰巻きのようなものを付けており、肩には人間を担いでいる。
その肩に担いでいる者は、セーラだった。気絶しているのか死んでいるのか、ピクリとも動こうとしない。
シレーヌの顔は、怒りで真っ赤になった──
「貴様! その子を離しなさい!」
怒鳴った時、彼女の肩をつかんだ者がいる。ジャックだ。直後、耳元で囁く。
「お嬢様、落ち着くのん。ここで暴れたらマズいのんな」
そう、ここでは人目がある。万一、ここで化け物相手に勇敢に戦う姿など見せてしまったら……学園の者たちの、シレーヌに対する評価が変わる。
それは、闇の処刑人としては大きなマイナスだ。
シレーヌの動きが止まった時、化け物ことハイドは動いた。野獣のごとき咆哮の直後、セーラを担いだまま走り出す。そのスピードは速く、馬でも追いつけないくらいだ。
「くっ!」
拳を握りしめるシレーヌ。何の罪もないセーラが、目の前でさらわれた。にもかかわらず、何もできなかった……。
そこで、ジャックがまたしても囁く。
「お嬢様、グズグズしてる時間はないのんな。化け物狩りの時間だっチャ」
その頃、非人街では大変な騒ぎになっていた。診療所付近の住民たちを、モンドら憲兵が避難させようとしていたのだ。
「おら、お前たち。さっさと行け。でないと逮捕しちまうぞ」
そんなことを言いながら、連れて行こうとするモンド。しかし、ここの住民たちは素直に言うことを聞いてくれない。
「はあ? 何で行かなきゃなんねえんだよ。この木っ端役人が」
言い返したのは、八十は過ぎているであろう老人だ。ボロボロの布をまとい、顔は皺だらけだが体は元気そうだ。憲兵らに対し、怯む気配がない。
「だからぁ、ここは危険だって……」
モンドが言いかけた時だった。突然、獣の声が響き渡る。
続いて、飛び込んできた者がいた。緑色の巨体が、恐ろしい勢いで着地する。そう、ハイドた。肩にはセーラを担いでいる。
さすがの住民たちも、これを見ては逃げるしかなかった。蜘蛛の子を散らすように、四方八方に逃げていく。
入れ替わるように現れたのは、インジャン・ジョーだ。トマホークを構え、ハイドを睨みつける。
「てめえ何考えてやがる! その娘を離せ!」
吠えたジョーを、ハイドはジロリと睨みつける。
「このリンゴ野郎……お前さえいなけりゃ、こんなことにはならなかったんだ」
はっきりと、そう言ったのだ。
「ジョー、こいつお前の知り合いかよ!?」
震えながら聞いてきたモンドに、ジョーが答えようとした時だった。突然、ハイドの拳が飛んでくる。
ジョーは、すんでのところで飛び退いて躱した。だが、ハイドの攻撃は終わらない。立て続けに、岩のような拳が振り下ろされる。その攻撃を一発でももらえば、ジョーといえどひとたまりもない。ひき肉のように潰されてしまうだろう。
しかし、ジョーとて並の戦士ではない。大柄な体に似合わぬ素早い動きで、右に左にと躱していく。今のハイドは、セーラを抱えていて片手しか使えない状態だ。そうなると、攻撃の軌道も見切りやすい。
ハイドは苛立ち、セーラを脇に下ろした。直後、獣のごとき吠え声をあげる。
「遊びは終わりだ! 本気で行くぞ!」
その時、駆けつけてきた者たちがいた。黒い仮面をつけ、黒いシャツとズボン姿の者が三人……シレーヌとモリアーティ、そしてジャックだ。
「ジョー! 大丈夫!?」
シレーヌの言葉に、ジョーは頷いた。
「ああ。けどよ、こいつシャレにならねえぞ!」
「あなたは、セーラを連れてこの場を離れなさい! 後はわたくし達が引き受けます!」
「おい! それは──」
言いかけたジョーに、シレーヌは囁く。
「今のあなたは素顔なのよ! わたくし達に任せなさい!」
その時、ハイドが飛び上がった。ジョーめがけ、上空から拳を振り下ろす。どうやら、彼の狙いはジョーらしい。
ジョーは地面を転がり、その攻撃を避けた。素早く起き上がると、セーラを担ぎ上げて走り出す。
「お前! セーラを奪う気か!」
ハイドは吠え、彼の後を追おうとする。その時、銃声が響き渡る。モリアーティのピストルが火を吹いたのだ。
高速の鉛弾は、ハイドの体内を貫く。さしもの怪物も、動きを止めた。殺ったか……と、皆が思った時だった。
次の瞬間、ハイドの傷口から鉛弾が飛び出る。次いで、みるみるうちに傷がふさがっていった──
「バ、バカな……」
普段、どんな状況であろうとクールに分析するはずのモリアーティだったが、今は呆然となっている。
一方、ハイドは高らかに笑った。
「ギャハハハ! 初めて見る武器だぜ! だがな、そんなの効かねえんだよゴミクズが!」
喚いた直後、拳を振り上げ突進していく。次の狙いはモリアーティか……と思いきや、シレーヌが突っ込んでいく。モリアーティに体当たりをして吹っ飛ばした。
そこに、ハイドの拳が飛んでくる。シレーヌは、咄嗟に飛びあがった。ハイドの拳を、飛び蹴りの形で受ける。
次の瞬間、シレーヌは吹っ飛んでいった。だが、着地と同時に、素早く受け身を取った。ダメージは最小限に押さえている。
彼女は、確かにハイドのパンチを食らった。だが、食らうと同時にハイドの拳を起点にし、後方に思いきりジャンプしたのだ。彼女の卓越した格闘の技術あってこその芸当である。
「こしゃくな真似を……てめえら、全員殺す!」
ハイドが怒りの叫び声をあげた時、モリアーティがピストルをブッ放す。弾丸は、ハイドの巨体に炸裂した。
しかし、またしても弾丸が押し出される。直後、傷はふさがっていった──
「こ奴、不死身か!?」
モリアーティの絶望的な叫びと対照的に、ハイドは勝ち誇ったような雄叫びをあげる。
「無駄無駄無駄ぁ! そんなもの効かねえ! いつまで繰り返すんだ! 学習能力がねえなぁ!」
その時、背後からハイドの巨体に飛び乗った者がいる。ジャックだ。
彼は細い刃物を取り出す。突き刺すことに特化した短剣であり、ジャックの愛用品である。
その短剣を、ハイドの首筋に突き刺した。すると、一旦は傷口ができて血が流れる。
しかし、傷はすぐにふさがった。
「このチビが! チョロチョロすんな!」
声と同時に、ハイドは体をゆする。だが、ジャックはお構いなしだ。凄まじい速さで、何度も何度も突き刺していく──
「うわぁ! すっごいのんな! 何度刺してもすぐ治るっチャ! これ刺し放題なのんな!」
ジャックの表情は恍惚としており、ハイドの再生能力に怯む素振りがない。それどころか、かえって喜んでいるようだ。




