薬品無用(3)
セーラは、カゴを手に貧民街を歩いていた。
まだ日は高いのに、この辺りの空気だけくすんでいるような気がする。浮浪者が酒瓶を片手に道で寝転がっており、掘っ立て小屋からはおかしな声が聞こえてくる。セーラは顔をしかめ、足早に進んでいった。
彼女がなぜ、こんな場所にいるのか……それは、ミンチン学園長からの命令であった。
「学園の備蓄薬が足りないの。噂によれば、非人街に魔術師上がりの人が経営する安い診療所があるらしいわ。今すぐ買って来なさい」
有無を言わさぬ言葉である。当然、セーラに拒否権などない。彼女は、行くしかなかった。
どうにか診療所に辿り着くと、セーラは中にいた白いローブの青年・ジキルに会釈する。
「あの、すみません。消毒薬と、傷に塗る軟膏をいただきたいのですが……」
ジキルはというと、想像もしていなかった来客に困惑していた。この辺りでは、見かけることのない美しい顔立ちの持ち主である。まだ若いが、通りを歩いていたら、若者たちが放っておかないだろう。
「う、うん、消毒薬と軟膏だね。いいよ」
柄にもなくドキドキしながら、棚から薬を出した。手渡す時、そっと尋ねる。
「ところで君、なぜこんなところに来たんだい? ここは物騒なところだ。来ない方がいいよ」
「でも、ミンチン学園長先生に命令……いえ、頼まれたのです」
その答えに、ジキルは思わず顔をしかめる。
ミンチン学園長……王宮魔術師団にいた時、パーティーにて顔を見かけたことがある。強欲そうな中年女で、高級なネックレスやリングなどを幾つも付けていた。
自身の装飾品には金を惜しまぬ癖に、学園で使う薬品は少しでも安く済ませようとする……なんとふざけた女なのだろうか。
「そうか。では、ミンチン学園長に言っておきたまえ。そちらさんが望むなら、私が学園まで行って薬を補充しようとね」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」
「なに、構わないよ。こちらも、お得意様ができればありがたいからね」
薬をカゴに入れたセーラは、足早に進んでいく。一刻も早く、この非人街から離れたかった。
しかし、この街の住人は彼女を放っておいてはくれなかった。突然、セーラの前に若者が立ちふさがる。
「君ぃ、可愛いじゃん。何してんの?」
若者は、馴れ馴れしい態度で話しかけてきた。背は高く、素肌に毛皮のベストを着て皮のズボンを穿いている。目つきは悪く、腰のベルトには短剣をぶら下げていた。
「か、買い物です」
セーラは、震えながら答えた。すると、相手はニヤニヤ笑いながら近づいてきた。
「ねえ、買い物なんかよりさ、もっと楽しいことしねえ?」
「あの、急いでいるので!」
そう言って、セーラは若者の脇をすり抜けて行こうとする。しかし、腕をつかまれてしまった。
「君、本当に可愛いよ。ウチの店に来ない? 君なら、かなり稼げるよ。なあに、裸になって目をつぶってりゃ終わるから」
この時点で、店というのが何なのか考えるまでもないだろう。セーラは、必死で叫んだ。
「は、離してください! 私、そんな仕事なんかしません!」
「んー、それは無理な相談だよ。だってさ、君を店に連れてくって決めちゃったから。なあ、お前ら」
若者が言った瞬間、セーラの周りを少年たちが取り囲む。セーラと、大して歳の違わない年代の少年たちだ。もっとも、ミンチン学園の生徒たちに比べると、遥かにガラの悪い風貌である。
「た、助けてください!」
セーラは叫んだが、誰も助けに来ない。リーダー格の若者は、彼女の腕をつかんだまま引っ張って行こうとする。
その時、冷めた声が聞こえてきた。
「そこのガキども、何やってんだ」
途端に、若者の動きが止まる。セーラは何事かと辺りを見回した。
すぐ近くに、男が立っていた。浅黒い肌、肩まで伸びた黒髪、腰にぶら下げたトマホーク……そう、インジャン・ジョーである。ただし、普段と違い片手には買い物カゴをぶら下げ、背中にリュックを背負っていた。
少年たちは、思わず後ずさっていた。ボルトほどではないにしろ、ジョーも体は大きく筋肉質だ。しかも、いかつい顔からは暴力の匂いがプンプン漂っていた。そこらのチンピラやギャングなど、比較にならないほどの凄みを感じさせる。
それでも、リーダー格の若者には意地があった。ここで引いては、子分の少年たちにナメられる……そんな意識も働いたのだろう。
「お、おっさん、なんか用かよ?」
凄んだ……つもりだったのかもしれないが、その声は震えていた。
一方、ジョーの方は表情ひとつ動かさない。おもむろに片手を買い物カゴにつっこむと、リンゴをひとつ取り出す。
次の瞬間、リンゴは砕けてしまった。ジョーが握り潰したのだ──
「お前らが何やろうが勝手だ。しかしな、目の前でうろちょろされると目障りなんだよ。さっさと消えろ」
続けて放たれた声は、とても静かなものだった。しかし、その声の奥にあるものを少年たちは感じ取ったらしい。
少年たちは、蜘蛛の子を散らすように走り去ってしまった。
「あ、ありがとうございます!」
頭を下げつつ礼を言ったセーラに、ジョーは冷たい表情で答える。
「お前も、さっさと帰れ。ここはな、お前の来る場所じゃねえんだ」
「は、はい!」
セーラは、慌てて走り去っていった。ジョーは、彼女の姿が見えなくなったのを確かめると、そばにあった掘っ立て小屋を睨みつける。
そこには、人の気配があった。隠れて、一部始終を見ていた者がいるのだ。その者に、ジョーはそっと語りかける。
「あいつらと戦え、とは言わねえよ。けどな、騒いで憲兵呼ぶくらいのことはできたんじゃねえか。まあ、俺には関係ねえけどよ」
そう言うと、ジョーは足早に去っていった。
やがて、ジョーは屋敷に戻ったが……ここで、またしても騒動が起きる。
「僕のリンゴがないのん! リンゴどうしたのん!」
叫んだジャックに、ジョーは面倒くさそうに答える。
「ああ、すっ転んだ瞬間によ、ドブに落としちまったんだ。すまねえな」
だが、その答えはジャックを納得させられなかった。ジャックは、プクーッと頬を膨らませる。
「ううう、僕のリンゴジャムがないのん! こうなったら、インジャンの血をジャムにするのんな!」
「わ、わかったから落ち着け! 明日買ってやるから!」
◆◆◆
そんなロラン家の屋敷とは、真逆な空気に包まれていたのがジキルの家であった。
ジキルは、セーラがチンピラに絡まれていた時、掘っ立て小屋に隠れて見ていたのだ。
助けに行きたかった。だが、行こうとした瞬間に頭に浮かんだものがあった。
(おいジキル、何とか言えよ!)
言いながら、ガキ大将が腹にパンチを入れる。小さくひ弱なジキル少年には、抵抗はおろか防ぐことすらできない。
(ぐえっぷ!)
嫌な呻き声の直後、ジキルは吐いてしまった。
(うわ! こいつゲロ吐きやがった!)
(きったねえ!)
思い出した途端、吐き気が込み上げてくる。助けに行きたい。でも、気持ち悪い。
そこで、ひとりのいかつい男が現れた。背が高くて筋骨たくましく、暴力にも慣れている感じだ。男がひと睨みしてリンゴを握り潰すと、チンピラたちは逃げ去っていった。だが、そこまではいい。
問題なのは、男がジキルの隠れていた場所に近づき、言い放った言葉だ。
(あいつらと戦え、とは言わねえよ。けどな、騒いで憲兵呼ぶくらいのことはできたんじゃねえか。まあ、俺には関係ねえけどよ)
その通りだ。反論のしようもない。暴力を用いなくても、できることはあったはずなのだ。なのに、何もできなかった。
仕方なかったんだ。
僕は、あいつのように強くない。
何はともあれ、セーラが無事で良かったんだ。
そう考え、無理やり自分を納得させようとした時だった。
セーラを、あの男に取られちまうぞ──
不意に、そんな声が聞こえてきた。ジキルは、ハッとなり周りを見回す。
誰もいない。今のは気のせいか……そう思った時、またしても声が聞こえてきた。
お前、セーラのことが気に入ったんだろ?
ジキルは、必死で首を横に振った。違う。セーラのことを、そんな邪な思いで見ていない。
「嘘つけ。お前は、セーラが欲しいんだ。認めちまえよ」
はっきりと聞こえる。この声は……あいつだ。
「違う! そんなこと思っていない!」
叫ぶジキルだったが、奴の声は止まってくれない。
「おい、俺はお前自身なんだぜ。自分に嘘ついてどうすんだよ。なあ、俺が力を貸してやる。アレを飲め。そしたら、お前は無敵だ。あのリンゴ野郎なんか、比較じゃないくらい強くなれるぞ」
「い、嫌だ。私は、アレを飲みたくない」
「だから、嘘つくなって。アレ飲めば、お前は何でもできるんだぞ。それによ、あのリンゴ野郎にセーラを取られていいのか? セーラ、今頃リンゴ野郎に抱かれてるかもしれねえぞ」
その時、ジキルは立ち上がった。ゆっくりと歩き、棚を開ける。血走った目で、棚の奥にある小瓶を睨んだ。
次の瞬間、彼はそれを飲んだ。




