薬品無用(2)
翌日、シレーヌは面倒くさそうな顔で登校した。
廊下の真ん中を、黒いコートとズボン姿でずかずか進んでいく。廊下にいた生徒たちは、どんどん道を開けていった。もっとも、彼女を見る目には、恐れと憎しみとがある。
王都の噂は、あっという間に広まっていく。それが悪い噂なら、稲妻のごとき速さで都中を駆け巡っていくのだ。シレーヌが憲兵の詰め所にて、バカ息子のギルバートを連れ出した話は、もう学園の皆に知られているらしい。
「あの人、犯罪者を逃したらしいわよ」
「ひどい女だな」
「王妃の妹だからって、やっていいことと悪いことがあるわ」
「顔は綺麗だが、腹の中は真っ黒なんだな」
そんな陰口を叩く生徒たちを完全に無視し、シレーヌは廊下を大股で歩いていく。と、その足が止まった。
廊下の端で、三人の女生徒がひとりの召使いを囲み、何やら話している……いや、いたぶっているのだ。
いたぶられているのは、言うまでもなくセーラである。今にも泣き出しそうな表情で、助けを求めるように周りを見た。
すると、その視線がシレーヌを捉えた。
シレーヌは、口元に笑みを浮かべる。情けないわね、あなた……とでも言いたげな表情で、フンと鼻を鳴らした。
途端に、セーラは唇を噛みしめる。シレーヌの軽蔑の眼差しが、彼女の心に火をつけたらしい。
次の瞬間、キッとした表情でシレーヌから視線を逸らす。
「わ、わたくし! 仕事があるので失礼します!」
上ずった声で叫び、半ば押しのけるようにして生徒たちの囲みを破る。そのまま、足早に歩いていった。
一瞬、女生徒たちは唖然となり動けなかった。まさか、セーラがこんな形で逆襲してくるとは思わなかったのだ。
だが、直後に怒りの表情が浮かぶ。すぐさま後を追おうとした。しかし、そこにシレーヌが立ちふさがる。
「目障りな人たちですこと。さっさと消えてくださらない? でないと、頭蓋骨を叩き割りますわよ」
言った途端、女生徒たちはコソコソと引き上げていく。彼女たちは、自分たちより弱いとわかっている者にしか強く出られないのだ。
シレーヌはというと、チラリとセーラの方を見る。彼女は、既に遠く離れていた。こちらで何があったかなど、見ようともしていない。
シレーヌは笑みを浮かべ頷いた。
「そう、それでいいのよ」
やがて授業が終わり、シレーヌは帰っていく。
屋敷に入ると、騒がしい声が聞こえてきた。インジャン・ジョーとジャックが、また喧嘩しているらしい。あのふたりの言い争いは、今や屋敷の恒例行事である。仲がいいのか悪いのか、他人から見れば判断に苦しむ間柄であろう。
「明日は、インジャンが行くのん!」
「お前が行け!」
言い合うふたりに、ボルトが割って入る。
「まあまあ。ここはひとつ、ジャンケンで決めてはどうです?」
「僕はそれでいいのんな」
ジャックは了承したが、ジョーは渋い表情だ。
「ちょっと待て。何でジャンケンなんだよ?」
「公平でいいではありませんか」
宥めるボルトだったが、そこでジャックが煽る。
「フン、インジャンは何でも力ずくで押し通すのんな。野蛮人だっチャ。文明人は、暴力は使わないのん」
「誰が野蛮人だ! よし、ジャンケンいくぞ!」
言ったかと思うと、ジョーとジャックは構えた。直後、ジョーが声を発する──
「せーの! インジャン、ホイ!」
掛け声と同時に、ジョーはグーを出す。一方、ジャックはパーだ。
途端に、ジャックは飛び上がった。
「やったのん! これで、明日の買い物当番はインジャンなのん!」
「クソ! また負けた!」
悔しそうな表情のジョーだったが、そこにモリアーティが話しかけてきた。
「つかぬことを窺いますが、ジョー、あなたのジャンケンの掛け声であるインジャンとは、どういう意味なのですかな?」
「知らん。俺の地元じゃ、みんなそう言ってたんだよ」
「それが、今やジョーの二つ名になってしまいましたからね。面白いものです」
ボルトが言うと、みんなも笑った。シレーヌも、クスリと笑う。ギルバートを逃したことによる不快感は未だに残っているが、少しは和らいだような気がした。
◆◆◆
その夜、ジキルは自室にて体を震わせていた。
以前より研究していた薬品が、ついに完成したのだ。持病の発作を止める薬に、様々な魔法や怪しげな民間療法の知識を加えて改良し、完成させたのである。
傍目には、どろりとした緑色の液体だ。しかし、これを飲めば肉体は強化され、様々な病を治すことができるはずだ。
ジキルは、この薬をハイドと名付けていた。ルフラン国の軍人であり、鉄人と呼ばれたハイド将軍にあやかって……という思いから、付けた名前である。
その薬品ハイドを、ジキルはじっと見つめた。
正直、不安はある。王宮魔術師団では、こうした新薬ができた時、まずは奴隷に試す。老若男女、様々な年代の奴隷に飲ませてみて、安全が確認されてから売り出していたのだ。
言うまでもなく、奴隷の命など保証されていない。団長のラスプーチンなど、魔法の実験により死なせた奴隷は百人を超えるという。ジキルが魔術師団を辞めた理由も、そんな人間の下につきたくないという思いがあったからであった。
しかし、今は奴隷がいない。こうなると、自分で実験してみるしかないのだ。
ジキルは、そっと少量を飲んでみた──
どろりとした緑の液体が喉を焼く。直後、ジキルの全身を未曾有の激痛が襲った。骨が自ら組み変わるように軋み、血管は浮き上がって蛇のようにのたうつ。白いローブは内側から膨れ上がる筋肉に耐えきれず、悲鳴を上げて弾け飛んだ。
「ぐ、グオォォ!」
悲鳴は、次第に湿った獣の咆哮へと変わっていく。 白かった肌は、毒々しいほど鮮やかな緑の色へと染まり、背中からは剛毛が突き出してきた。
そこにいたのは、もはや痩身の青年ではない。隆起した大胸筋、岩石のような大腿部。そして、口の端から覗く鋭い牙。
狼の群れですら退散していくような、圧倒的な暴力の権化『ハイド』が現れたのだ。
ハイドは、窓から外に飛び出した。
濁った赤い瞳で夜空を見上げると、その強靭な足腰にしなりを加えた。
直後、地面が大きくへこむ。ハイドの体は重力を無視し、夜の闇へと飛び上がった。一瞬で三階建ての屋根の上へと降り立ち、月を背に雄叫びを上げる。
それは、野獣と呼ぶことすら生ぬるいものであった。魔界から召喚されし妖獣そのものだ。
ハイドは、そのまま屋根の上を飛び回る。体に湧き上がる凄まじいパワーの命ずるまま、ハイドは動いた。
その獣面には、歓喜の表情が浮かんでいる──
どのくらいの時間が経ったのだろう。
ジキルは、どうにか帰りつきベッドに潜った。まさか、こんな効果が現れるなど想像もしていなかった。肉体を強くし、病気に対する免疫力を高める。それが、この薬『ハイド』を作った目的だった。
それが、こんなことになろうとは──
「これは危険だ。飲んではならない」
自分に言い聞かせるように呟くと、ジキルは眠りに落ちた。
グシャリ、という音がした。同時に、手にはスイカを潰したような感触が伝わってくる。
生暖かい液体が、顔に付着した。何かと思い拭ってみる。
手は、真っ赤に染まっていた。これは血だ。直後、自分が潰したものが人の頭であることを悟る。
嬉しかった。もう、何も怖くない。どんな相手だろうが、こうやって一瞬で潰すことができる。
「俺は強いんだ! 誰でもかかって来い!」
叫んだ後、野獣のような咆哮が口から出た。
そこで、ジキルは目を覚ました。上体を起こし、荒い息を吐く。
今、恐ろしい夢を見た。人間の頭を握り潰していたのだ。にもかかわらず、夢の中の自分は喜んでいた。
破壊と殺戮の喜びに、体と心が打ち震えていたのだ。




