薬品無用(1)
ルフラン国のベルサーユは、一見すると華やかな都である。
しかし、街の片隅には貧民たちの住む一角がある。貴族はもちろんのこと、憲兵ですら近づきたがらない場所だ。通りには、掘っ立て小屋や、ボロ切れで作られたテントが並んでいる。たまにレンガ造りの建物があるかと思えば、表には出せない商売をしている店だったりする。得体のしれない匂いが漂い、道行く人々には覇気がない。皆、希望などというものとは無縁の顔つきをしている。
そんな貧民窟にも、診療所なるものがあった。経営しているのは、白いローブを着た痩せた若者である
今、その診療所にひとりの老婆が訪れていた。
「ジキル先生、こんなもので良ければ……」
老婆は、そんなことを言いながら紙包みを差し出す。ジキルは、笑みを浮かべ受け取った。
「おや、ほうれん草じゃないか。どうしたんだい?」
「うちの庭で取れたものだよ。薬代がないから、これを受け取っておくれよ」
「ありがとう。これで、今日の夕飯が少し豪華になったよ」
「すまないねえ。うちにお金がなくて……」
ペコペコ頭を下げる老婆に、ジキルは優しく微笑んだ。
「いいんだよ。魔術は仁術でもある。私の学んだ魔術が世のため人のためになる、それが嬉しいのさ」
老婆が去った後、ジキルはそっと溜息を吐いた。まだ日は高く、暗くなるまでには時間がある。夜までは、ここにいなくてはならない。
以前、彼は王宮魔術師団の一員であった。しかし、三ヶ月ほど前に退団したのだ。
一見、華やかに見える王宮魔術師団……しかし、その裏側は足の引っ張り合いが横行している汚い世界であった。何より不快なのは、団長であるラスプーチンへの貢物がなければ名前すら覚えてもらえないところである。
実力など関係ない。大事なのは、コネと根回しと競争相手を蹴落とす汚さ……それを知った時、ジキルは自ら退団した。そして、ここで貧しい人々相手の診療を始めたのだ。
後悔はしていない、はずだった。
それでも、時に考えてしまうことがある。己を殺し、王宮魔術師団の出世レースに真剣に取り組んでいたら、果たしてどうなっていたのだろうか? という疑問が、時おり頭をもたげてくるのだ。
今さら考えてどうする?
自分に言い聞かせた時だった。突然、ジキルは咳き込み出した。さらに、呼吸が苦しくなる。
「また発作だよ」
ジキルは忌々しげに呟き、黒い丸薬を水なしで飲み込む。苦いが、発作を止めるためには仕方ない。
せめて、この持病の発作だけでも止まってくれれば……。
◆◆◆
その頃、シレーヌは憲兵の詰め所にいた。
傭兵とは違い、都市の治安を司る憲兵は身分も身なりもきちんとしている。詰め所も清潔だ。シレーヌは客間のソファーに座り、不快そうな表情で天井を見上げていた。
扉のそばには、ひとりの青年が立っている。憲兵の制服に身を包み、腰には長剣をぶら下げていた。シレーヌとほ目を合わせないようにしているが、こちらも不快そうな表情だ。
やがて、中年の憲兵が客間に入ってくる。ひとりの男を引き連れていた。
「シレーヌ様、連れてきました。この男に間違いないですな?」
中年の憲兵・モンドはそう言った。シレーヌは、連れて来られた若者に視線を移す。
年齢は二十歳前後か。締まりのないトボケた顔つき、青白い顔色、肩までの金髪。間違いない、この若者がギルバートだ。ズタ袋のような服を着ており、気分は良くなさそうである。
もっとも、シレーヌは原因を知っていた。二日酔いなのだ。
「間違いありません。さあギルバート、行きましょう」
そう言うと、シレーヌはギルバートの腕をつかむ。強引に引きずり出ていった……が、そこで意外な人物と出くわす。
受付のところに、セーラが立っていたのだ。シレーヌの顔を見て唖然としている。
シレーヌも、一瞬ではあるが狼狽え立ち止まってしまった。セーラが、憲兵の詰め所に何の用だろうか……。
その時、受付の声が聞こえてきた。
「セーラさん、この落ちていた財布はウチで預かっておきます。持ち主が現れたら、あなたか拾ったことを告げておきますか?」
その声に、セーラは我に返った。
「い、いえ、その必要はありません。持ち主に戻ってくれればいいです」
そんな模範生のごとき答えを聞き、シレーヌの表情が僅かに歪んだ。ギルバートを引っ立て、外に出ようとする。
その時、若い憲兵が走ってきた。シレーヌの前に立ち、険しい表情で口を開く。
「シレーヌさん、あなたはギルバートが何をやったか知っているのですか?」
その声は震えていた。対するシレーヌは、ジロリと睨みつける。
「知っていますわ。酒を飲んで酔っ払った挙げ句、全裸で女性の前に現れ、不埒な行為に及ぼうとした……間違っていますかしら?」
「ギルバートが捕まったのは、これで三度目ですよ! いい加減、罰を与えるべきではないのですか!?」
詰め寄る若き憲兵だったが、シレーヌの態度は冷ややかなものだった。
「それは、あなたが決めることではありません。わたくしに意見するとは、何様のつもりですの? 口から手を突っ込んで内臓を引きずり出してあげましょうか?」
凄んだ途端、モンドが走ってきた。若い憲兵の腕をつかみ、強引に下がらせる。
「お前は下がってろ……あ、シレーヌ様、申し訳ないことをしました。こいつには、キツく言っておきますので」
ペコペコ頭を下げるモンド。中肉中背の体で、ヘラヘラした態度は憲兵らしくないものだ。事実、この男は憲兵の中でも手抜きの多い昼行灯として有名である。今も、娘くらいの歳のシレーヌに揉み手をしている有り様だ。
シレーヌは、フンと鼻を鳴らした。
「その愚か者に、世の道理というものを教えておきなさい。さあギルバート、お父様の元に帰るのよ」
そう言うと、ギルバートを引き連れ詰め所を出ていく。だが、そこで声が聞こえてきた。
「正義はどこにあるのですか!」
先ほどの若き憲兵が、モンドに向かい叫んだのだろう。シレーヌは、自嘲の笑みを浮かべた。
「正義? そんなもの、ありはしないのよ」
そっと呟くと、ギルバートを引っ立てていく。
通りに出ると馬車を呼び、ギルバートを乗せた。御者に向かい、指示を出す。
「このバカ息子を、フォックスの屋敷に連れて行ってちょうだい。代金は、彼の父親のエドマンドからいただきなさい」
御者は頷くと、馬車を走らせる。
シレーヌは、フゥと溜息を吐いて帰ろうとした。が、そこにセーラが走ってくる。その頬は真っ赤に紅潮しており、瞳には怒りの感情があった。
「また、面倒くさいのが現れたわね」
思わず呟いたシレーヌだったが、セーラに引く気配はない。足をガタガタ震わせながらも、シレーヌの前に立った。
「あ、あなたは……さ、最低です!」
全身を震わせながらも、セーラは怒鳴った。詰め所での言い合いと御者とのやり取りを聞いてしまい、事情を察したのだろう。
そして、怒りをこらえきれなくなったのだ──
シレーヌは、クスリと笑っていた。セーラに対する嘲笑ではない。むしろ、自分を嘲笑していた。
「最低、か。そうかもしれないわね」
それだけ言うと、シレーヌは足早に去っていく。
直後、セーラはヘナヘナと崩れ落ちた。怒りに任せて行動してしまったが、今になってどれだけ恐ろしいことをしていたのか理解したのだ。
シレーヌが屋敷に帰ると、さっそくモリアーティが出迎える。
「お嬢様、お帰りなさいませ。先ほど、エドマンド・フォックスからの前金が届きました。後日、残りの金を支払うそうです」
エドマンド・フォックスとは、ルフラン国でも指折りの商人であり、売春宿『アフロディア』のオーナーでもある。
息子のギルバートは酒癖が悪く、酔っ払っては問題を起こしていた。昨日も全裸で歩いて憲兵に捕まったため、王妃の妹という肩書きを持つシレーヌが引き取りに出向いたのである。
「そう、ご苦労様」
答えた彼女の顔には、苦悩の表情があった。モリアーティは、そっと声をかける。
「お嬢様、おわかりかとは思いますが……我々が夜の稼業を続けるためには、こうした仕事もまた必要なのですよ」




