巨鬼無用(5)
ベオウルフは、巨大なタライを手にして、地下に向かう階段を降りていく。
ここは、施設の中でも限られた者しか訪れない場所だ。一応は壁にランプが据え付けられているが、それでも視界は悪い。気をつけないと、足を踏み外してしまいそうだ。
さらに、鼻をつくのは異様な匂いだ。家畜小屋など比較にならない。世の中にある様々な汚物を集めたら、こんな匂いになるのではないだろうか。上品な世界しか知らぬ貴族なら、ここに入っただけで卒倒してしまうだろう。
しかし、ベオウルフは眉ひとつ動かさず進んでいく。彼は、これまで様々な怪物の巣に潜入してきた。もはや、異臭には慣れていたのだ。
やがて、彼は匂いの源へと辿り着いた。
辺りは暗闇に覆われており、常人には目の前に何があるかすら見えない状況だ。だが、ベオウルフは夜目が利く。彼は、闇の中でも戦えるよう訓練を重ねてきた。お陰で、目の前に何があるかわかるのだ。
すぐそばには、頑丈な鉄格子がある。象が体当たりをしても壊れないようなものだ。なぜこんなものがあるかといえば、外に出てはいけないものを閉じ込めておくためである。
そして中には、二匹の怪物がいた。
一応、人間と同じ二足歩行の生物だ。体毛は濃く、口には牙が生えている。体はとても大きく、ベオウルフですら子供のように見えてしまうほどだ。腕は長く、足は短い。一見するとゴリラのようだが、顔つきは肉食動物のようである。
だが、その口からは意外な言葉が出た。
「ベオウルフ!」
「ベオウルフ!」
二匹……いや、ふたりは鉄格子を握り、嬉しそうにはしゃいでいる。その様は、巨大な子供としか言いようがない。
実のところ、この怪物は……チュールを殺したグレンデルと、その母アンジェラであった。さらに、前世ではベオウルフに倒された宿敵でもある。
にもかかわらず、ベオウルフにはすっかり懐いているのだ。
ベオウルフは鍵を開け、中に入っていく。
グレンデルとアンジェラは、嬉しそうな様子で彼の手を握ったり頭を撫でたりしてきた。意味がわからない行動だが、敵意は全く感じられない。かつては死闘を演じた間柄だというのに、今では古くからの友人のようである。
このふたりは、どうなってしまったのだろうか。ゾンダーらの操り人形にするため、記憶を消されてしまったのか。
ベオウルフは、こみ上げてくる感情を押し殺した。部屋の隅に行き、持ってきた空のタライを置いた。代わりに、悪臭の元であるものを持ち上げる。
それは、グレンデルとアンジェラの糞尿が溜まったタライである。本来ならば信者の仕事だが、誰もやりたがらない。そのため、ベオウルフが引き受けたのだ。
その時、ベオウルフの頭にひとつの考えが浮かんだ。彼はタライを置き、ふたりの方を向いた。
「なあ、お前ら腹減ってないか?」
優しい口調で尋ねると、グレンデルとアンジェラは首をブンブン振る。もちろん縦にだ。
「減ってる!」
「減ってる!」
そうだろうな、とベオウルフは苦笑した。
このふたりに「食事」を運ぶのは信者の仕事である。強い光で鬼たちを怯えさせて遠ざけ、その隙に人間の死体を運び込むのだが……信者たちは、一日に一度しかやっていないらしい。
そのため、ベオウルフはたびたび非人街に出向いていた。そこで柄の悪いチンピラに肩をぶつけ、喧嘩を売ってきたところを殺す。あるいは、悪党の経営するいかがわしい店に乗り込んで暴れる。
その死体を、教団の「食事」とは別口で与えていたのである。
だが、近頃では暴れすぎて死体も手に入れづらくなってしまった。それに、今では何もかもが嫌になってしまった。
生きることが、こんなにも苦痛に感じる日々が来ようとは──
「だったら、俺を食え」
ベオウルフは、笑顔で言ってみた。だが、ふたりは困惑した表情だ。
「えっ?」
「えっ?」
どうやら、よく聞こえていなかったらしい。ベオウルフは、ゆっくりと喋ってみることにした。
「いいか、もう一度言うぞ。お前たちは、腹が減っている。だったら、俺を食べればいい。俺は構わんぞ」
にこやかな表情で言ったが、グレンデルとアンジェラは首を横に振った。
「嫌だ!」
「嫌だ!」
ふたりの叫び声に、今度はベオウルフが困惑した。なぜ、自分を食べないのだろうか。
かつては、殺し合った間柄なのに──
「なんで俺を食わないんだ? 男だからか? おっさんだからか? 贅沢言うなよ」
言ったところ、予想もしなかった答えが返ってきた。
「ベオウルフは友達! 食いたくない!」
「俺、友達は食べない!」
ベオウルフは、目頭が熱くなるのを感じた。
かつての記憶が蘇る。光を受け、苦しむグレンデルの両腕をもぎ取ったこと。我が子を失い、復讐に燃えるアンジェラとの死闘。特にアンジェラは、ベオウルフの記憶の中でも五本の指に入る強敵であった。
そんなふたりが、ベオウルフを友達だと言ってくれた……。
「いい加減にしろ! これは命令だ! 俺を殺せ! 殺して食え!」
湧いてくる感情を押さえつけるため、ベオウルフは怒鳴りつけた。だが、ふたりに聞く気配はない。
「嫌だ!」
「嫌だ!」
目から涙を流しながら、なおも拒絶している。
ベオウルフは、虚ろな目でふたりを見つめることしかできなかった。どうやら、このふたりもまた自分を殺してくれないらしい。
ふと、先ほど話したゾンダーの姿が頭に浮かぶ。四十過ぎだが見た目は良く、若い娘たちからも人気はある。以前、貴族の地位を金で買い国政にも乗り出す……などと、側近に語っているのを聞いた。
しかし、裏では若い女の信者をたぶらかし奴隷商人に叩き売っている。施設に泊めていた子供は、夜のうちに運ばれ魔法や新薬の実験材料に使われていることも知っている。
ゾンダーと、ここで泣いているふたりの人食い鬼。どちらが、本物の「怪物」なのだろうか。
やりきれない気分のまま、ベオウルフは階段を上がって行った。汚物を処理すると、トボトボと歩いていく。
なぜか、その足は礼拝堂へと向かっていた。
礼拝堂には、巨大な像がある。女神レムリアの姿に似せて作られているらしいが、ベオウルフはそんな者など知らない。そもそも、希望の家の教義に興味がなかった。
そんな彼が、礼拝堂で祈りを捧げていた。
「女神よ……俺は貴様が何者か知らん。興味もない。だがな、貴様がもし本当に存在するのなら、俺の祈りを聞いてくれ。この俺を、ふたりの人食い鬼と共に、一刻も早く死なせてくれ」
◆◆◆
その頃、ロラン家の地下室には五人が集まっていた。皆が見守る中、シレーヌが口を開く。
「今回の仕事は、はっきりとわたくし達を名指しで依頼したそうです。ならば、確実に仕留めねばなりません」
「あのさぁ、チュールって人を殺したのは、そのバカウルフって奴でいいのん?」
呑気な様子で聞いてきたジャックを、ジョーがジロリと睨む。
「バカウルフじゃねえ、ベオウルフだ。バカはお前だよ」
途端に、ジャックが怒り出した。
「キーッ! バカじゃないのん! バカって言う方がバカなのんな!」
「何でそうなるんだよ。バカじゃないなら理由を説明しろ」
「そ、それはその……ううう、今日の夕飯はインジャンの唐揚げなのん!」
喚き、ナイフを抜いたジャック。だが、シレーヌが一喝する。
「そこまで!」
その声に、さすがのジャックもおとなしくなった。
一方、シレーヌは落ち着いた表情で話を続ける。
「今回の標的は、希望の家の教祖ゾンダー。さらに、召喚されし英雄ベオウルフ。そのふたりを始末すれば、希望の家も壊滅しますわ」
「ちょっと待ってくれ。その前に、ひとつ確かめたいことがある」
言ったのはジョーだ。
「なんですの?」
「チュールを殺ったのは、ベオウルフじゃねえと思うんだ。一度、あいつと話してみたい」




