Episode.04 相澤澪 過去編① ★
記憶の底に沈殿している、最も古く、そして最も鮮烈な色彩。
それは、夏の終わりの、ひどく暴力的なまでに澄み渡った青空の色だったと思う。
七ツ海市の高台にある、海が見える幼稚園。
私にとっては、思い出したくもない地獄。
潮風が常に園庭を吹き抜け、遊具の鉄錆の匂いと、砂場の湿った土の匂いが混じり合う場所。
私――相澤澪にとって、そこは世界で最も「不自由」で、そして「恐ろしい」場所だった。
「やーい、澪の泣き虫! また先生に言いつけてみろよ!」
背後から飛んできた心ない言葉。
同時に、私の背中に、バラバラと乾いた砂の粒が叩きつけられた。
振り返ると、そこにはクラスの男の子、陽太くんが意地悪な笑みを浮かべて立っていた。
――陽太くんは、いつも私を標的にした。
お気に入りのリボンを引っ張り、砂場で作ったお城を無惨に踏みつぶし、私が泣きそうになると、それを囃し立てる。
幼稚園の先生たちは、私を助けてはくれなかった。
先生たちは「陽太くんは、澪ちゃんのことが好きなのよ?」と無責任な言葉を吐き捨て、いつも彼を軽く注意することしか、しなかった。
幼い私にとって、向けられる悪意が好意の裏返しかなんて、どうでもよかった。
――ただ、怖かった。
自分の居場所が、誰かの身勝手な感情によって侵食され、汚されていくことが。
「……やめて。砂、かけないで……」
声が震える。
視界が、涙でじわりと滲む。
私は手に持っていたプラスチックのスコップを握りしめ、ただ下を向いて耐えるしかなかった。
砂場の隅っこ。
そこが、私の世界のすべてだった。
「嫌だね! ほら、もっとかけてやる!」
陽太くんが、プラスチックのバケツいっぱいに砂を掬い上げ、私の頭上へ掲げた。
私は反射的に目を閉じ、来るべき「暴力」に備えて体を縮こまらせた。
――けれど。
数秒経っても、砂が降ってくる気配はなかった。
「……あ、痛いっ! 何すんだよ、京!」
陽太くんの、情けない叫び声。
私は恐る恐る、目を開けた。
そこには、一人の背中があった。
私よりも少しだけ大きくて、頼りなくて、けれどその時の私には、どんな巨木よりも雄大に見えた背中。
お兄ちゃんだった。
「陽太。……澪を、泣かせるな」
お兄ちゃんの声は、震えていた。
彼だって、喧嘩が強いわけじゃない。
むしろ、家ではいつもお母さんに怒られてばかりの、泣き虫なはずのお兄ちゃん。
それでも、彼は陽太くんの腕を必死に掴み、私との間に割り込んで立っていた。
「……うるせーな! 関係ないだろ! お前、澪の兄貴だからって威張るなよ!」
「関係ある! 澪は、僕の妹なんだ! 僕が、守らなきゃいけないんだ!」
お兄ちゃんは、陽太くんを突き飛ばした。
陽太くんは尻もちをつき、予想外の反撃に驚いたのか、顔を真っ赤にして泣き出した。
周囲の園児たちが集まってくる。先生たちも慌てて駆け寄ってくる。
その喧騒の中で、お兄ちゃんはゆっくりと振り返った。
「……澪。大丈夫か?」
差し出された、小さな、砂だらけの手。
お兄ちゃんの鼻の頭には、緊張のせいか、うっすらと汗が滲んでいた。
彼の瞳は、真っ直ぐに私だけを捉えていた。
――その瞬間。
私の中で、世界が音を立てて書き換えられた。
ざぁっ、と。
それまで白黒だった視界に、鮮やかな色彩が奔流となって流れ込んでくる。
耳の奥で、ドクン、ドクンと、今まで聞いたこともないような激しい鼓動が鳴り響く。
――ああ。
この人だ。
この人が、私の「王子様」だ。
私の世界を、この汚い、理不尽な現実から救い出してくれる、唯一の騎士。
私はお兄ちゃんの手を、壊れ物を扱うような手つきで握りしめた。
その手のひらの熱。
ゴツゴツとした、小さな指の感触。
それは、私の魂に深く、深く、消えない刻印を焼き付けた。
「……うん。ありがとう、お兄ちゃん」
私は、生まれて初めて、心の底から「笑った」のだと思う。
お兄ちゃんは、私のその笑顔を見て、少し照れくさそうに「えへへ」と鼻の下を擦った。
その時は、まだ知らなかった。
お兄ちゃんが私を助けた理由が、単なる「兄としての義務感」でしかなかったことを。
彼にとって、妹を守るという行為は、ヒーローごっこの延長線上にある、無邪気で、透明な善意でしかなかったことを。
――けれど、私は違った。
私は、その純粋な善意を、毒のように飲み込んでしまった。
お兄ちゃんが私に向けてくれたその「特別」を、一生、誰にも渡したくないと。
この温もりを、この背中を、私だけの聖域として、永遠に琥珀の中に閉じ込めておきたいと。
幼い私の胸の中に産声を上げたのは、純真な慕情などではない。
それは、執着という名の、ドロドロとした暗い欲望だった。
だけれど、兄との思い出は恋慕だけではなく、あの地獄を連れてきたのだ。
そう、お兄ちゃんの初恋の相談を受けたあの日――。
「……なぁ、澪。……ちょっと相談に乗ってくれないか?」
私の中で、大事な「何か」が音を立てて崩れ始めた。
―――――あとがき―――――
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