Episode.03 兄のえっちな本 ★
夜の二十二時。
家中が、寝静まった獣のような沈黙に包まれる時間。
一階ではお父さんとお母さんが、碧海市での買い物の土産話を終えて、それぞれの眠りについた。
私は、自分の部屋のドアを細く開け、廊下の様子を伺う。
脱衣所の方から、規則正しいシャワーの音が聞こえてきた。
……よし。お兄ちゃんがお風呂に入った。
私は音もなく廊下へ滑り出した。
私の足音は、自分でも驚くほど軽い。
お兄ちゃんの部屋の前に立ち、ドアノブを回す。
カチリ、という小さな金属音にさえ、私は細心の注意を払う。
――。
お兄ちゃんの部屋。
そこは、私の「ストレス解消部屋」であり、同時に、最も「警戒すべき場所」でもある。
私はまず、ベッドの横に膝をつき、床の埃の具合を確認した。
週に一度の日曜日。
お兄ちゃんがどんな女に欲情するのか。
それを最も客観的に証明してくれるのが、この部屋に隠された「本」の痕跡だ。
「……さて。今週のお兄ちゃんは、何に夢中だったのかな?」
私はベッドの下から、一冊の雑誌を引っ張り出した。
少し前までのお兄ちゃんなら、間違いなくこの「巨乳グラビア」の本が、私の仕掛けたトラップごと乱されているはずだった。
私は、ページの隙間に挟んでおいた、私自身の細い髪の毛を確認する。
「……え?」
髪の毛は、私が先週置いた場所から、一ミリも動いていなかった。
ページを捲る。
指紋も、折り目も、一週間前と全く同じ。
……一度も、開かれた形跡がない。
クローゼットの奥に隠された、もっと過激な漫画も。
机の引き出しの奥に忍ばせた、官能小説も。
すべて、手付かずだった。
「……どうして? お兄ちゃん。……元気がないの?」
私は困惑し、本を元の位置に戻した。
男の子なら、一週間に一度くらいは、こういう「捌け口」を必要とするはず。
それをしないということは、理由は二つ考えられる。
一つは、お兄ちゃんの性的嗜好が根底から変わってしまったこと。
私は焦燥感に駆られ、部屋の隅々を文字通り這いずり回った。
お兄ちゃんから性欲が消えるなんて、天変地異よりもあり得ない。
以前の彼は「巨乳」や「大人のお姉さん」など、明らかに「おっぱいの大きい女性」が大好きで、そのページには決まって折り目の跡がついていた。
私はそれを見て、「あ、私はもっと牛乳をいっぱい飲んでおっぱいを大きくして、お姉さんっぽく振る舞わなきゃ」って、あんなに努力してきたのに。
彼の部屋からは、私が把握していない「えっちな本」は、出てこなかった。
新しく並んでいたのは、中原中也の詩集や、幼馴染の妙子ちゃんから借りたであろう、あまりにも「健全」で「実用的」な参考書ばかり。
お兄ちゃんの「生臭さ」が、消えている。
代わりに漂っているのは、完成された大人の男の、凛とした静寂。
それが、私をたまらなく不安にさせる。
嗜好を把握できていないということは、お兄ちゃんが私の管理外の場所で、私の知らない「女」の色に染まっている可能性があるということだ。
「……ダメだよ、お兄ちゃん。澪に隠し事なんてしちゃ……」
もう一つの「最悪」の理由が、私の頭をよぎる。
「……学校で、誰か『本物』に触ったの?」
――心臓が、早鐘を打つ。
脳裏に、高嶺の花である蓮見遥の、凛とした横顔が浮かぶ。
あるいは、あの天真爛漫を装った小鳥遊妙子か。
お兄ちゃんを、生身の女が汚した可能性が浮上する。
紙の上の記号ではなく、血の通った、汚らしい女の指先が、お兄ちゃんの理性を壊したのかもしれない。
そうでなければ、この「潔癖すぎる」部屋の状態は説明がつかない。
「……嘘だよね? お兄ちゃん。もし、あの女たちとシてたら……絶対に、許さないからね?」
イライラが募る。
こういうときは、アレで落ち着くしかない。
私はお兄ちゃんのベッドの上に寝転ぶ。
彼の匂いがたっぷり染みついた枕を抱きしめ、そこに残る匂いを深く吸い込んだ。
朝よりも、ずっと深く。
私の細胞の隅々まで、兄の成分を取り込む。私の憎しみと執着を塗りつぶすように。
――最近のお兄ちゃんは、変だ。
急に大人びて、私を見る瞳が、どこか遠い場所を見ているみたいで。
私のあざとい演技も、ホラー映画での抱擁も、以前なら顔を真っ赤にしていたはずなのに、今のお兄ちゃんは、まるで「悟りを開いた」ような顔で、私を優しく突き放す。
以前の、私のちょっとした露出に狼狽えていた「青臭くて、子供っぽい」お兄ちゃんはどこへ行ったの?
今の彼は、私がどれだけ無防備を装っても、まるで大人が子供をあやすような、余裕のある微笑みを返すだけ。
その優しさが、私を狂わせる。
「妹」という安全な枠組みに閉じ込めて、私を「一人の女」として見てくれない。
私を救おうとしているみたいで、その実、私を最も遠ざけている。
「……お兄ちゃんは、私のものなんだよ?」
お兄ちゃんが変わっていく。
私が知らない「何か」を背負って、私が届かない場所へ行こうとしている。
なら、私はその足を、鎖で縛り付けるだけ。
……いや。
縛り付けるだけじゃダメかもしれない。縛り付けて吊し上げよう。
私はもう一度だけ、お兄ちゃんの匂いを全身に取り込む。
お兄ちゃんの匂い。
以前よりもずっと、深く、官能的な、私を狂わせる匂い。
もしもお兄ちゃんが、もう「えっちな本」なんて必要ないほど、精神的に「熟して」しまったのだとしたら。
「……ふふ、あははっ」
震える指先で、自分の唇をなぞる。
今の、あの大人の余裕を持ったお兄ちゃんが、理性を捨てて、もしも本気で「一人の女」を求めたら――。
想像するだけで、下腹部の奥が熱く疼き、頭の芯が痺れるような快感に襲われる。
「いいよ、お兄ちゃん。でも、この私に、いつまでも隠し通せると思わないでね……?」
さて、最後はお待ちかねの、自分への「ご褒美タイム」だ。
私は、お兄ちゃんのベッドの上で、何度も何度も、快楽に全身を浸した。
――。
しばらくして、脱衣所から、シャワーの音が止まった。
お兄ちゃんが上がってくる。
私は、音もなく部屋を抜け出し、自分の暗い部屋へと戻った。
闇の中で、私の瞳は、自分でもわかるほど鋭く、琥珀色に燃えていた。
明日から、また新しい一週間が始まる。
あの坂道の向こうで、お兄ちゃんを狙う女たちが現れる。
けれど、忘れないで、お兄ちゃん。
あなたがどれだけ誰かを救おうとしても。
あなたがどれだけ高潔であろうとしても。
最後に戻るこの家で、あなたのことを一番よく知っているのは、私だけなんだから。
「……おやすみなさい、お兄ちゃん。大好きだよ」
私は、呪文のように呟いた。
閉ざされた琥珀の檻の中で、私たちの「偽りの日常」は、より一層、濃密に、そして歪に加速していく。
私が、こんなにも「お兄ちゃん」に執着するようになったのは、いつだっただろう?
あれはたしか、幼稚園の、ある夏の出来事だっただろうか。
私は、お兄ちゃんとの懐かしい記憶を思い返しながら、深い微睡の中へと落ちていくのだった。
―――――あとがき―――――
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