Episode.02 闘う妹②
午後のリビングは、さらに静まり返っていた。
テレビも付けず、お互いに一言も発さないまま、僕と澪は食卓でそれぞれの課題に向き合っていた。
僕は、目の前にある数学の教科書に目を落とす。
この世界の学問体系は、僕のいた世界と同じだ。
けれど、問題文の中に登場する「七ツ海市から碧海市へ向かう列車の速度」といった些細な固有名詞が、ここが創作の世界であることを、嫌というほど僕に突きつけてくる。
「……ふぅ。お兄ちゃん、終わった?」
澪が、シャーペンを置いて大きく伸びをした。
ブラウスが引っ張られ、彼女の腰のくびれが鮮明になる。
僕は視線を上げずに答える。
「いや、あともう少し。澪は終わったの?」
「うん! 澪、やればできる子だからね。……ねぇ、お兄ちゃん。せっかくお父さんたちもいないんだし、映画でも観ない?」
澪はそう言うと、リビングの棚から一本のDVDを引っ張り出してきた。
パッケージを見た瞬間、僕は眉をひそめた。
「……ホラー? 澪、苦手だったよね?」
「え、そうかな? たまにはこういう、ドキドキするのもいいかなって思って。……お兄ちゃん、一緒に観てくれるよね?」
――彼女の瞳には、明らかな「期待」の色があった。
僕は教科書を閉じ、ソファへと移動した。
カーテンを閉め、部屋を暗くする。
テレビの画面から、不気味な音楽が流れ始めた。
映画の内容は、ありふれたものだった。
古い屋敷に迷い込んだ若者たちが、一人ずつ正体不明の怪異に襲われていく物語。
血飛沫が舞い、無機質な絶叫がスピーカーから響く。
「……っ!」
画面の中で犠牲者が出た瞬間、隣に座っていた澪が、僕の腕にがっしりとしがみついてきた。
細い指が、僕の腕の肉に食い込む。
「……こ、怖い……お兄ちゃん……」
震える声。
彼女の小さな肩が、不自然なほど激しく上下している。
これは、演技なのだろうか。それとも、本当に恐怖を感じているのか。
「大丈夫。……ほら、目を閉じて」
その瞬間、澪の体が僕に完全に密着してくる。
彼女の柔らかい肉の感触と、首筋から漂う甘い香り。
「……お兄ちゃんが、いてくれるなら。……怖くない、かも」
澪は僕の胸に顔を埋め、小さく呟いた。
その声には、恐怖とは別の、熱っぽい熱量がこもっていた。
僕は、彼女の頭を撫でることさえできず、ただ画面を見つめ続けた。
映画が終わり、エンドロールが流れ始める。
部屋に明かりを点けると、澪は少し名残惜しそうに僕から離れた。
頬が赤らんでいるのは、恐怖のせいか、それとも。
「……お兄ちゃん、凄かったね。最後の人、かわいそうだった」
「ああ、そうだな」
僕はソファに深く腰掛け、ふと思いついたことを口にした。
これが、僕が今日、彼女に聞かなければならなかったことだ。
「……なぁ、澪。進路のこと、考えてる?」
「進路?」
「ああ。高校生活も始まったばかりだけど、将来、何がしたいとか。……目標とか、あるの?」
――澪は、一瞬だけ目を見開いた。
そして、いつもの「天真爛漫な妹」の笑顔を浮かべて、さらりと言った。
「そんなの、決まってるよ。澪は、お兄ちゃんのそばにいたい。お兄ちゃんが困らないように、ずっとサポートしてあげるの。それが澪の、一番やりたいことだよ?」
その言葉に、一片の迷いもなかった。
だからこそ、僕は背筋が凍るような思いがした。
「……自分の人生だよ。僕のことはいい。澪自身が、どんな大人になりたいかを聞いてるの」
「お兄ちゃんがいれば、それだけで澪の人生は完成してるんだよ? ……それとも、お兄ちゃんは、澪がいなくなってほしいの?」
――彼女の瞳から、光が消えた。
濁った琥珀色の奥底から、底知れない「虚無」が顔を覗かせる。
「そうじゃない。ただ、澪には澪の人生を、もっと色鮮やかに……」
「色なんて、お兄ちゃんがいれば勝手に付くよ。お兄ちゃんがいない世界なんて、澪にとっては、全部、白黒だもん」
澪は、僕の言葉を遮るようにして立ち上がった。
「……澪、お風呂洗ってくるね」
背中を向けた彼女に、僕はそれ以上、言葉をかけることができなかった。
僕が彼女に提示した「幸せになってほしい」という想いは、彼女にとっては、最も恐ろしい「拒絶」に聞こえたのかもしれない。
テレビの画面は、いつの間にか無機質な砂嵐を映し出している。
――日曜日の夜。
僕は、澪が定期的に行っている「検閲」について、この時はまだ、気づいていなかった。
―――――あとがき―――――
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