Episode.05 相澤澪 過去編② ★
中学校という場所は、不意に、そして無慈悲に、「異性」という境界線を引いてくる。
昨日まで一緒に泥遊びをしていた幼馴染が、ある日突然、誰かの「好きな人」になり、教室の隅でひそひそと恋の噂が囁かれるようになる。
お兄ちゃんも、その波に呑まれた一人だった。
「……なぁ、澪。ちょっと相談に乗ってほしんだけど……」
夕食後、リビングで宿題を広げていた私に、お兄ちゃんが消え入りそうな声で話しかけてきたのは、中学二年生の梅雨入り前のことだった。
お兄ちゃんの顔は、耳の付け根まで真っ赤に染まっている。
その表情を見た瞬間、私の心臓が、まるで冷たい氷をそのまま飲み込んだように凍りついた。
――直感が、警鐘を鳴らしていた。
聞きたくない。その言葉の続きを、私の鼓膜の中に一秒たりとも入れたくない。
「……何? 数学の問題なら、お兄ちゃんの方が得意でしょ」
「違うんだ。……その、好きな人が、できてさ――」
世界が、音を立てて崩れ落ちた。
手に持っていたシャーペンの芯が、パキリと乾いた音を立てて折れる。
お兄ちゃんの視線は、フローリングの木目に固定されていた。
彼の瞳の中に、一人の女の子の残像が棲みついている。
私がどれほど努力しても、どれほど祈っても消えない、女の影。
「……クラスの、佐々木さんっていう子なんだけど。……僕みたいな地味な奴、相手にされないかな」
お兄ちゃんは、自嘲気味に笑った。
その笑顔は、私に見せる「兄」の顔ではなく、一人の「男」としての、弱さと熱を孕んだ顔だった。
――吐き気がした。
お兄ちゃんのその純粋な恋心が、私にとっては、猛毒よりも恐ろしいものに感じられた。
「……どうして、私に相談するの?」
「だって、澪は女の子だろ? 流行りのこととか、プレゼントとか、詳しいかなって。……一番信頼してるからさ、お前のこと」
一番、信頼している。
その言葉が、鋭利なナイフとなって私の胸を抉る。
――信頼しているから、自分を「女」としてカウントしていない。
――信頼しているから、自分の恋路を応援させるという残酷な仕打ちを、無自覚に行える。
「……いいよ。協力してあげる」
私は、血の気が引いた唇で、精一杯の「良い妹」の声を絞り出した。
そうするしかなかった。
拒絶すれば、お兄ちゃんは他の誰かに相談し、私の知らない場所で、その恋を成就させてしまうかもしれない。
ならいっそのこと、私の管理下で、私の目の前で、その「不潔な物語」を進行させる方が、まだ耐えられた。
――それからの日々は、私にとって地獄の連続だった。
夜、お兄ちゃんの部屋に呼ばれる。
そこにあるのは、お兄ちゃんが佐々木さんに送ろうとしている、恋文の下書きだった。
「……『君の笑った顔が、春の陽だまりみたいで素敵です』。……これ、変かな?」
お兄ちゃんが書いた、拙くて、けれど一文字一文字に想いがこもった文章。
私はそれを読みながら、内心で激しい呪いの言葉を吐き散らしていた。
――死ねばいいのに。その女も、その言葉も、全部。
「……少し、大袈裟かも。もっと自然に、『今度、図書室で一緒に勉強しない?』とか、そういう誘いの方が、彼女も断りにくいと思うよ」
私は、お節介な恋のアドバイザーを演じた。
お兄ちゃんの想いが成就しないように、けれどお兄ちゃんが私を疑わない程度に、絶妙に「外した」助言を織り交ぜる。
けれどお兄ちゃんは、私の言葉を聖書のように信じ、ノートに必死でメモを取る。
「さすが澪! 助かるよ」
そう言って私の頭を撫でる、その手のひら。
その手は、明日の放課後には、別の女の肩に触れることを夢見ている。
そう思うだけで、私は自分の髪を引き千切りたい衝動に駆られた。
最も残酷だったのは、誕生日のプレゼント選びだった。
「アクセサリーなんて、重いかな……。でも、何か形に残るものをあげたいんだ」
日曜日の午後、お兄ちゃんに連れ出されたショッピングモール。
お兄ちゃんは、キラキラとしたジュエリーショップの前で、場違いなほどに緊張していた。
彼が手に取ったのは、小さな、けれど上品な銀色のネックレスだった。
「……これ、佐々木さんに似合うと思うんだ。なぁ、澪。ちょっと、付けてみてくれない?」
「……え?」
「お前なら、首筋のラインとか、佐々木さんに近いだろ? 実際に付けたところを見ないと、イメージが湧かなくて」
お兄ちゃんは、無邪気に私にネックレスを差し出した。
私は、拒否する権利さえ奪われたまま、鏡の前に立った。
お兄ちゃんの指が、私の首筋に触れる。
冷たいチェーンが肌を滑り、ペンダントトップが鎖骨の間に落ち着く。
お兄ちゃんの体温が、至近距離で伝わってくる。
鏡の中の私は、お兄ちゃんが選んだ「別の女のための愛」を、その身に纏わされていた。
「……うん、いいな。やっぱり似合うよ、澪」
お兄ちゃんは満足げに頷き、私の首筋を覗き込んだ。
その瞳は、私を見ているようで、私を見ていなかった。
鏡の中の私を透過して、その向こう側にいる、佐々木さんという幻影を見つめていた。
――殺してほしい。
私を、この場で殺して。
お兄ちゃんの愛の「試着品」にされるくらいなら、いっそ一突きで心臓を止めて。
お兄ちゃんは、嬉々としてレジへ向かった。
私は鏡に映る自分を、憎しみを込めて睨みつけた。
このネックレスを付けている間、私は私ではなく、あの子の「身代わり」でしかなかった。
お兄ちゃんの恋が成就するための、ただの便利な道具。
夜、お風呂場に向かった私は、お兄ちゃんが触れた首筋を、皮膚が赤くなるまで石鹸とタオルで擦った。
――消えない。
お兄ちゃんが「あの子のために」向けた、あの優しい眼差しが、網膜に焼き付いて離れない。
どうして。どうして、私は『妹』なの?
血がつながっているというだけで、どんなに愛しても、どんなに尽くしても、私はお兄ちゃんの『特別』にはなれない。
他の女の子が、たった数ヶ月の交流で手に入れる「恋人」という椅子に、私は一生、座ることができない。
……。
私は泣き腫らした目のまま、だけど呆然とした表情のままで、自分の部屋に戻る。
「……お兄ちゃん。……好きだよ……」
枕を抱きしめ、声にならない声で呟く。
その言葉は、誰に届くこともなく、暗い部屋の中に霧散していく。
お兄ちゃんは今頃、隣の部屋で、明日渡すプレゼントのことで頭がいっぱいなはずだ。
私は、机の引き出しの奥から、お兄ちゃんの使用済みの下着を取り出した。
それを、自分の唇に押し当てる。
お兄ちゃんの一部を、強引に奪い取っているという実感が、唯一の救いだった。
お兄ちゃんだから、好きになっちゃいけない。
そんな倫理なんて、とっくに壊れていた。
私は、お兄ちゃんを愛している。
けれど、その愛は、世間が言うような清らかなものではない。
お兄ちゃんの恋をぶち壊し、お兄ちゃんの羽を折り、お兄ちゃんの視界から私以外のすべてを排除したい。
それは、祈りよりも呪いに近い、どろりとした執着だった。
私は、窓の外を見上げた。
雨が降り始めている。
明日、お兄ちゃんがプレゼントを渡す日。
その日が、お兄ちゃんにとっての「始まり」になるのか、それとも「終わり」になるのか。
私は、膝を抱えて、暗闇の中で笑った。
――もしお兄ちゃんがフラれたら。
絶望して、泣きながら帰ってきたら。
私は、誰よりも優しい「妹」の顔をして、彼を抱きしめてあげよう。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。私だけは、ずっと味方だからね」と。
お兄ちゃんの不幸を願う自分。
お兄ちゃんの恋が壊れることを、心待ちにしている自分。
そんな醜い自分を、私は嫌いではなかった。
むしろ、それこそが、相澤澪という人間が唯一持てる、お兄ちゃんへの「真実の愛」だと思えたから。
「……おやすみなさい、お兄ちゃん。……明日、絶望が待ってるといいね」
私は、目を閉じた。
瞼の裏には、あの銀色のネックレスが、絞首刑の縄のように私の首を締め付けている光景が浮かんでいた。
お兄ちゃんの初恋が、粉々に砕け散る瞬間を想像しながら。
私は、深い、深い、琥珀の沼へと沈んでいった。
―――――あとがき―――――
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