Episode.05 気になる先輩への想い② ★
窓の外では、春の陽光に誘われた虫たちが力なくダンスを踊っている。
それはまるで、出口のない迷路を彷徨う今の私のようだった。
昼休みの教室。
購買のパンを争奪した生徒たちの凱旋の声、どこか浮ついた色恋沙汰の喧騒。
それらはすべて、澱んだ熱気となって煮え切らない鍋のように私の肌にまとわりつく。
私は、澪の背中に隠れるようにして、その教室の扉を潜った。
そこには、一人の男の子が座っていた。
相澤京先輩。
かつて、中学二年のあの夏に、私の魂を震わせた音を「すごい」と笑ってくれた人。
彼は一人、周囲の喧騒から切り離されたような静謐を纏い、机に向かってペンを動かしていた。
午後の古典の予習……だろうか。真面目な先輩らしい。
けれど、その横顔を見た瞬間、私は自分の心臓が、正体不明の警鐘を鳴らすのを感じた。
――違う。
私の記憶の中にいる「相澤先輩」は、もっとこう、頼りなげで、どこか放っておけないような、ふんわりとした「かわいい」空気を纏っていたはずだ。
なのに、今、目の前でルーズリーフにペンを走らせているその背中からは、酸いも甘いも噛み分けたような、圧倒的な「個」の重みが漂っている。
彼は、独りで完結していた。
誰に媚びることもなく、ただそこに存在しているだけで、周囲の空気を自分の方へと引き寄せてしまうような、底知れない深淵。
「――おーにーいー、ちゃん!」
隣で、澪が弾けたような声を上げた。
鼓膜を突き抜けるような、それでいて甘ったるい粘り気を含んだ、身内以外には決して見せない執着の響き。
教室内が一瞬で静まり返る。
学年でも指折りの美少女である澪の登場に、男子たちの視線が飢えた獣のように突き刺さるが、澪はそんなもの微塵も意に介さない。
彼女は一直線に先輩の元へ駆け寄り、その腕に、ためらいもなく抱きついた。
「えへへ、お兄ちゃん、お疲れ様! 邪魔しにきちゃった」
腕に胸を押し付け、愛玩動物のように擦り寄る親友。
その光景は、端から見れば仲睦まじい兄妹の姿に映るだろう。
けれど、私だけは知っている。
澪の瞳の奥で、どろりとした黒い感情が、獲物を狙う蜘蛛のように蠢いているのを。
「あの、相澤先輩。……お騒がせして、申し訳ありません」
私は、精一杯の「武装」として、一歩引いた位置で深く頭を下げた。
敬語。それは私にとって、他者との間に築く城壁だ。
これ以上、内側に踏み込ませない。
これ以上、私の「壊れた部分」を晒さないための、冷たい盾。
「澪。……それに、鳴瀬さんも。どうかした? 僕のクラスに二人揃ってなんて」
先輩がペンを置き、こちらを振り返る。
その瞬間、視線が交差した。
……っ。
息が詰まる。
先輩の瞳は、中学時代のような「かわいい」輝きではなく、すべてを肯定し、同時にすべてを冷徹に見透かすような、悟りを開いた大人のそれだった。
私が必死に隠そうとしている「早気」という名の古傷も、その視線にかかれば、白日の下に晒されてしまうのではないか。そんな恐怖が背筋を走る。
「実はね、凪ちゃんの弓道部が大変なの。新入部員が少なすぎて、矢拾いとか雑用をしてくれる人が全然足りないんだって」
澪が、芝居がかった仕草で窮状を訴え始める。
私が一人で、血の滲むような思いで二十二キロの弓を引き、誰にも頼れずに壊れていく姿を見て、澪は「助っ人」と称して、この場をお膳立てしたのだ。
「……お母様から、放課後のお使いを頼まれているんだよね? 澪」
私は、震えそうになる声を必死に抑えて補足した。
本当は、先輩にこんな姿を見られたくなかった。
かつての栄光を失い、それでも弓に縋るしかない「壊れた弓引き」だと思われたくなかった。
「それでね、凪ちゃんが困ってたから、澪が『お兄ちゃんなら絶対手伝ってくれるよ!』って言ったの。ね、お兄ちゃん。凪ちゃんを助けてあげて?」
澪の瞳が、期待に満ちて輝く。
……けれど、それは偽物だ。
一瞬。
本当に、瞬きの合間のような僅かな時間。
親友の瞳から、完全にハイライトが消失した。
「……凪ちゃんと、私と、お兄ちゃんで……」
澪の口から漏れ出す、独り言。内容までは聞き取れなかった。
私は、引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
「僕でよければ、弓道部の手伝いくらい喜んで受けるよ。ちょうど放課後は、『用事』が終われば暇だったからね」
先輩は、そんな不穏な空気すら春風のように受け流し、穏やかに微笑んだ。
「……本当、ですか? 先輩は、部活動もされていませんし、貴重な放課後を潰してしまうことになりますが」
「いいんだ。それに、弓道には少しだけ『縁』があるしね」
縁……?
自分が「壊れたこと」を認められず、鎧を纏って震えている私とは、あまりにも対照的だった。
「ああ。……それに、鳴瀬さんの射を、もう一度近くで見たいと思ったんだ」
――っ。
心臓を、鋭い針で刺されたような衝撃。
頬が、自分でもわかるほど熱くなっていく。
「……私の射など、もう見る価値はありません。……今は、ただの壊れた弓引きですから」
喉まで出かかった「期待」を、必死に自嘲の言葉で塗り潰した。
褒められたい。けれど、見られたくない。
あの日、先輩が聴いたあの弦音は、もうどこにも存在しないのだから。
「価値がないかどうかを決めるのは、僕自身だよ。……手伝い、させてくれるかな?」
先輩が、中身が大人そのものであるかのような、慈愛に満ちた眼差しを向けてくる。
その微笑みに、私は。
抗う術を、持っていなかった。
「……わかりました。放課後、弓道場でお待ちしています」
私は、逃げるように教室を後にした。
背中を向けても、先輩のあの穏やかな視線が、私の心臓を優しく、けれど確実に掴んで離さない。
かつての「かわいい先輩」への淡い憧れは、今、この瞬間を境に、より深く、より逃れられない「執着」へと形を変えていく。
――先輩。
貴方は、私の救いになるのでしょうか。
それとも、この壊れた心に、さらなる絶望を刻み込むのでしょうか。
放課後の静寂が、恐ろしくもあり、そして――狂おしいほどに、待ち遠しかった。
―――――あとがき―――――
今作をここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
少しでも続きが気になった方は、モチベーションに繋がりますので、
ブクマ・★評価機能で応援いただけると励みになります。
――――――――――――――




