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Episode.06 気になる先輩への想い③ ★

武道館の裏手に位置する弓道場は、放課後の喧騒から切り離された、まるで時間の止まった深海のような別世界だった。


使い込まれた板張りの床から立ち上る、古い松ヤニと木の匂い。


そして、肌を刺すような、張り詰めた冬のなごりの空気。


私は、道着の袴の紐をきつく締め直し、一人、射場の中央に佇んでいた。


手にしているのは、漆黒の光沢を放つ、私の唯一の「縋り代」――相棒の弓だ。


ガラリ、と静寂を破って扉が開く。


「お疲れ様です、相澤先輩。……お待ちしていました」


振り返ると、そこには化学準備室での「用事」を済ませてきたのであろう京先輩が立っていた。


彼は私の手元にあるその弓を見た瞬間、言葉を失い、大きく息を呑んだ。


「鳴瀬さん。……その弓、随分と……立派に見えるんだけど」


「……これですか? ええ。京都の職人に作ってもらった特級品です。十五、六歳の女子が引く弓ではありませんね。……弓力(きゅうりょく)は、22kgありますし」


私が淡々と告げると、先輩は「成人男性用じゃ……」と絶句した。


「この程度なら、七割くらいの筋力で引けますよ? いつか30kgの弓が引けるようになれたらいいなと、思っています」


強がり。


あるいは、肉体を極限まで痛めつけることでしか、心の穴を埋められない自傷行為に近い執着。


「……これくらい引けなければ、30kgの弓(浪漫砲)は夢のまた夢ですから」


冗談めかしてそう言い、私は準備を始めた。


先輩は、道場の厳かな雰囲気に気圧されたのか、後方のスペースにちょこんと座り、私をじっと見つめている。


そういうところは以前のままで、つい可愛いなと思ってしまう。


――静寂。


スゥ、と。


肺の奥まで道場の冷気を吸い込む。


足踏み。胴造り。


そして、打起し。


ゆっくりと、二十二キロの弓を引き絞っていく。


ミ、ミ、と。


弦が悲鳴を上げ、弓全体が極限の緊張を孕んで撓んでいく。


自分の肩、背中、腕の筋肉が、引き裂かれるような圧力を受けて浮き上がる。


視界が狭まり、ただ一点、的だけを見据える。


――(かい)


静止。極限の均衡。


だが、その瞬間。


心の中に、あの忌まわしい冷たい風が吹き抜けた。


放せ。今すぐ、楽になれ――。


脳を直接揺さぶるような、呪いの声。


眉がピクリと震え、私の意志とは無関係に、指先が弦を離した。


バチンッ!!


暴力的な衝撃音。


放たれた矢は的を狙うどころか、安土の遥か上、防矢ネットを激しく揺らして、そのまま無残に地面へ落ちた。


「……はぁ、はぁ……っ」


右手が、幽霊のように弦から離れたまま、止まることなく震えている。


「……やっぱり。……まだ、早気(はやけ)です……」


私は、膝から崩れ落ちるようにして、自分の無能を象徴するその右拳をじっと見つめていた。


二十二キロという弓を軽々と操る力がありながら、私は、自分の「心」ひとつ、制御できずにいる。


安土の土に突き刺さった矢が、私の「終わり」を告げるように、情けなく揺れていた。


「……見苦しいところを、お見せしました」


私は、崩れ落ちた膝を握りしめ、項垂れた。


こんな無様な姿、絶対に見せたくなかった。


「……引き絞った瞬間、心の中に冷たい風が吹くんです。早く放せ、楽になれ、と。……かつての部員が言った通り、私はもう、壊れた弓引きなんです」


自嘲する言葉に、中学時代のあの日、仲間に背を向けられた時の痛みが蘇る。


期待のエースから、戦犯へ。


その落差が、私の誇りをズタズタに引き裂き、未だに私を暗い檻の中に閉じ込めている。


だが、その時。


「……ねえ、鳴瀬さん」


先輩がゆっくりと歩み寄り、私の傍らに腰を下ろした。


「僕は弓道なんて、たった1ヶ月で投げ出したような、筋金入りの素人だ。22kgの弓なんて引けない、ただの、普通の人――」


先輩は、自らの不甲斐なさを笑うように、穏やかに語り始めた。


「だから、早気を治す方法なんて、僕にはさっぱりわからない。……でも、一つだけ確信を持って言えることがあるんだ」


私は、潤んだ瞳を上げ、先輩の顔を見た。


そこにいたのは、かつての「かわいい」先輩ではない。


すべてを受け入れ、肯定するような、深く静かな強さを持った一人の「男」の姿だった。



「今の鳴瀬さんの射は、中学の時に僕が遠くから見ていた、あの時と同じくらい――いや、それ以上に、凛としていて、綺麗だよ」



綺麗。綺麗。綺麗。…………えっ!? わ、私が綺麗!?


彼の言葉で、私の頬がわずかに桜色に染まる。


平常心、平常心よ、凪。ここは落ち着いて! いつもの冷静さを取り戻して!


先輩はあくまでも私の『射』が綺麗と言ってくれただけなのだから!


「……綺麗? 的も射抜けない、この無様な姿が……ですか?」


顔が熱くなり、思わず視線を逸らしてしまう。


「ああ。……弓道を知らない僕にとって、大事なのは『当たったかどうか』じゃないんだ。……鳴瀬さんが弓を引き絞る時の、あの空気が張り詰める感覚。指先まで神経が行き届いた、彫刻のような美しさ。……僕は、それに感動したんだよ」



――っ。



嘘偽りのない、まっすぐな言葉。



結果だけを追い求め、的中数という数字でしか自分を測れなかった私にとって、その言葉は、天から差し込んできた光のように私の心を救い上げた。


先輩の、その達観した、けれど誰よりも優しい眼差し。



「……それに、僕はもう一度聞きたいんだ。あの時、僕の魂を震わせた、鳴瀬凪だけの――あの甲高い弦音(つるね)を」



弦音。的中を超えた、正しい射だけが奏でる、魂の響き。


「……先輩は。……相澤先輩は、変な人ですね」


私は、呆れたように、けれど心の底から救われたような吐息を漏らした。


私の硬い言葉が、雪解けのように、わずかに、柔らかい響きへと変わる。


「……中学の仲間は、みんな、的中数(かず)しか見てくれませんでした。……でも、先輩は……私の『中身』を見てくれている。……澪が、お兄ちゃんのことを『お兄ちゃんは、世界で一番優しい人』って言っていた意味が、少しだけわかった気がします」


先輩が苦笑するのを見て、私は、凍りついていた自分の口角が、ほんの僅かに持ち上がるのを感じた。


「……相澤先輩」


私は、震える手で、先輩の制服の袖を、消え入りそうな力でクイと引いた。



「……私、もう一回だけ、引いてみます。……先輩が、見ていてくれるなら」



「ああ。……いくらでも、付き合うよ」


私は立ち上がり、再び弓を握りしめた。


足踏み。胴造り。


一つひとつの所作に、先ほどまでの絶望は消えていた。


ただ、この人に、聴かせたい。


私の、本当の音を。


再び、二十二キロの弓が引き絞られる。


心の中の冷たい風は、まだ止まない。


けれど、背後で見守る先輩の、あの温かな眼差しが、私の震える右手を支えてくれていた。


――会。


私は、的ではなく、自分自身の「音」だけを求めて、魂を解き放った。



――カァンッ!!



澄み渡る、鋭く甲高い衝撃音。


矢は、的のわずか数センチ横、安土の中央に力強く突き刺さった。


外れた。的中はしなかった。


だが、その音は、紛れもなく私が、そして先輩が求めていた、真実の「弦音」だった。


「……あ」


私は、呆然と自分の手を見つめる。


震えは、止まっていた。


「……今の、音……」


「……最高だったよ、鳴瀬さん。……僕には、到底届かない場所にある音だ」


先輩の拍手。彼は私の元へ駆け寄ってきてくれる。


私は、今まで感じたことのないほど、顔が熱くなるのを感じた。


ポニーテールを揺らしながら、必死に顔を伏せる。


「……大げさですよ、先輩。……先輩は、褒めすぎです。……でも……」


私は、チラリと上目遣いに、私の「英雄」となった先輩を見上げた。



「……明日も、来てくれますか? ……矢拾い、一人だと、大変ですから」



それは、私の心が初めて漏らした、誰にも触れさせたくないはずの「甘え」と、独占の言葉だった。


「もちろん。……約束だよ」


夕闇の沈む道場で交わした、小さな、けれど確かな約束。


先輩。


貴方は、私の「初恋の先輩」です。


これから、夕焼けが沈み、深い夜が始まる。


自分の中で加速する恋心が、もう誰にも止められないところまで傾き始めていることに、私はまだ――気づかない振りをしていたかった。


私はただ、この胸のざわつきに、身を任せていたかったのだ。




―――――あとがき―――――

今作をここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。

少しでも続きが気になった方は、モチベーションに繋がりますので、

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