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Episode.04 気になる先輩への想い① ★

静寂。


道場という空間を支配するのは、張り詰めた糸のような沈黙だ。


床板の松ヤニの匂い、わずかに湿り気を帯びた足袋の感触。


観客席のさざめきすら、今の私には遠い異世界の出来事のように思える。


弓道とは、自分という存在を限界まで研ぎ澄まし、最後にその「個」を消し去る儀式だ。


呼吸を整え、雑念を払い、ただ一本の矢と、的という名の「真理」に向き合う。


中学二年の、あの燃えるような夏の日。


私の世界はその静謐な美しさと、確かな万能感で満たされていた。


忘れられない日がある。


地区大会の決勝。武道館の天井は高く、差し込む光には無数の埃が舞っていた。


的中を重ねるごとに、自分の体が透明な水になっていくような感覚。


雑音は消え、ただ自分の鼓動だけが、一定のリズムで世界を刻んでいる。


そんな極限の集中の中で、私は客席の最前列に、大親友の澪と、その隣に座る一人の少年を見つけた。


澪の兄、相澤京(あいざわけい)先輩。


澪から「ちょっと抜けてるけど、世界で一番優しい自慢のお兄ちゃん」と聞かされていた人は、応援グッズをぎこちなく抱え、場違いなほどおっとりとした表情で私を見守っていた。


その、どこか頼りなげで、守ってあげたくなるような「かわいい」先輩の視線。


不思議だった。いつもなら他人の視線は「評価」という重圧にしかならないのに、先輩の眼差しだけは、冷えた私の指先に、じんわりとした、ひだまりのような熱を宿してくれたのだ。


……見ていてください、先輩。


心の中でそう呟き、私は「打起し」へと入る。


肺を道場の清浄な空気で満たし、弓を高く掲げる。そこからゆっくりと、大いなる円を描くように「大三」へと移行し、引き絞っていく。


弓力20kg近い弓が、私の骨格を軋ませ、肉を裂かんばかりに緊張を強いる。


だが、その痛みこそが心地よかった。自分が生きている、戦っているという証明。


そして訪れる「会」。


世界から色が消え、音も消え、ただ自分と的だけが、目に見えない銀色の糸で繋がっているような深い寂寥感。


無限とも思える数秒の静止。


今、この瞬間に自分が解き放たれることを、細胞の一つひとつが理解していた。


カァン――ッ!!


鼓膜を心地よく震わせる、天上の響きのような弦音(つるね)


放たれた矢は吸い込まれるように的の真ん中を射抜き、その瞬間に爆発するような開放感と達成感が全身を駆け巡った。


ああ……私はこの一射のために、弓を続けてきたんだと、そう思った。


人生で一番の射。あの日、私は確かに、弓の神様に愛されていた。



「すごかったよ、鳴瀬さん! 今の音、僕の心まで震えちゃった」



試合後、少し照れくさそうに笑って声をかけてくれた京先輩。


その飾らない、柔らかい笑顔。


「あ、はい……ありがとうございます」と、わざと冷たく、ぶっきらぼうに返すのが精一杯だった。


本当は、心臓が弦を弾いたみたいにいつまでも小さく跳ね続けていて、まともに先輩の顔を見ることすらできなかったのに。


親友の兄。ただの、一つ年上の先輩。


それだけの関係のはずなのに、私の心の中には、凛とした弓道の静寂とは違う、泥臭くて、熱くて、甘やかなざわつきが居座るようになった。



――けれど、幸福は長くは続かなかった。



中学三年の秋。部活動の集大成となる、最も重要な大会。


団体戦の「落ち(最後の一人)」という、最も重い責任を背負って立った射場で、突如としてその「魔物」は私を呑み込んだ。


スゥ。


いつも通り呼吸を整えたはずだった。

いつも通り、弓を引き絞ったはずだった。


だが、「会」に至り、精神を研ぎ澄まそうとしたその瞬間。


心の中に、刃物のような冷たい風が吹き抜けた。



……やめろ。放せ。今すぐ楽になれ。



脳髄に直接響くような、自分自身の呪詛。


まだ狙いが定まっていない。保持しなければならない。


それなのに、私の意志とは無関係に、右手の指が、恐怖に耐えかねたように弦を離してしまった。



――バチンッ!!



暴力的なまでの衝撃。


矢は無残に的を外れ、遥か上方の防矢ネットに絡みついた。



早気(はやけ)」。



一度罹れば最後、まともな弓引きには二度と戻れないと言われる絶望の病。


それは、私の「完璧」という自負を、足元から根こそぎ奪い去っていった。


一度狂った歯車は、二度と戻らなかった。


一射、また一射と、自分の射が壊れていく。


かつてエースと呼ばれた私は、瞬く間にチームの足を引っ張る「戦犯」へと成り下がった。


「……期待してたのに」


「凪ちゃん、どうしたの? 信じられない」


「あんたが最後にあんな外し方しなきゃ、勝てたのにね」


背中を刺すような、仲間の冷たい視線。


励ましの言葉さえも、今の私には憐れみという名の毒にしかならない。


あんなに愛しかった弓の感触が、今はただ、私を嘲笑い、拒絶する冷酷な鉄の塊にしか思えなかった。



なんでこのタイミングで。なんで私が。



何度も、何度も自分を責めた。


道場の隅で、震える右手を呪いながら、声を殺して泣いた。


けれど、いくら涙を流しても、失われた弦音は二度と私の耳に届くことはなかった。


私の弓引きとしての人生は、あの日、絶望と共に終わったはずだった。



「……もう、やめよう」



そう何度も心に決めた。


弓なんて、弦音なんて、もう二度と思い出したくもない。


けれど、高校の門を潜った時、私の足は、まるで呪いのように、無意識に弓道場の前へと向かっていた。


かつての栄光を忘れられず、けれど今の自分を許せない。


そんな矛盾を抱えたまま、私は再び、あの「かわいい先輩」のいる高校で、重すぎる弓を手にすることになった。


先輩。


もし、今の私の無様な姿を見たら、先輩はどんな顔をするでしょうか。


あの日、私を褒めてくれたあの笑顔は、きっと濁ってしまう。


それが、何よりも怖くて。


私は、自分の心を氷の壁で固めて、誰にも触れさせないように、ただ独りで、壊れたままの自分を演じ続けるしかなかった。




―――――あとがき―――――

今作をここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。

少しでも続きが気になった方は、モチベーションに繋がりますので、

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