第9話 町を取ったら、血の匂いがした
夜の沛県は、思ったより静かだった。
俺はこの町を知っている。
どの通りに犬が多いか。
どの家の戸がきしむか。
どの角を曲がると、酔っ払いが寝ていることがあるか。
亭長の仕事で走り回った町だ。
まさか、そこへ忍び込む側になるとは思わなかった。
西門の前で、俺たちは息を潜めた。
門番は二人。
一人は、こちらに協力するはずの任敖。
もう一人は、役所寄りの男だった。
予定では、任敖が内側から門を開ける。
俺たちは静かに入る。
樊噲が暴れない。
蕭何が戸籍と倉を押さえる。
最後の二つはいい。
俺は出る前に、みんなへ言った。
「今夜は勝つ。誰も死なせない」
言った瞬間、嘘だと思った。
夜に武器を持って町へ入るのだ。
誰も死なない保証など、どこにもない。
それでも、何人かはその言葉で息を整えた。
なら、もう嘘では済まない。
問題は、樊噲が暴れない、という部分だった。
「見るな」
俺は小声で言った。
「誰をだ」
樊噲が聞く。
「門番をだ。お前が見ると、相手が戦う気になる」
「俺の顔が悪いみたいに言うな」
「良い悪いではない。強すぎる顔だ」
樊噲は不満そうに口を閉じた。
正直、この時の俺は少し調子に乗っていた。
門は開く。
蕭何は動く。
樊噲は強い。
曹参は目が利く。
周苛は縄を用意している。
これなら、案外いけるのではないか。
そう思った。
思った俺が馬鹿だった。
門の向こうで小さな声がした。
「何をしている」
協力者ではない方の門番だ。
まずい。
任敖の声が聞こえた。
「いや、鍵を確かめていただけだ」
「こんな夜中に?」
疑われている。
樊噲が前に出ようとした。
俺はその腕をつかんだ。
「まだだ」
「遅れたら閉じられる」
「血を見せるな。町が起きる」
樊噲は俺を見た。
「難しい注文だな」
「お前ならできる」
半分は本気だった。
半分は、そう言えば樊噲が得意げになると思った。
門の内側で、短い争う音がした。
次の瞬間、隙間が開いた。
「今だ」
俺が言うより早く、樊噲が走った。
門が開く。
役所寄りの門番が叫ぼうとした。
樊噲はその口を片手でふさいだ。
もう片方の手で相手の腰を抱え、荷物みたいに地面へ転がす。
殴ってはいない。
たぶん。
「殺してないぞ」
樊噲が小声で言った。
「偉い」
「子ども扱いするな」
俺たちは門を抜けた。
そこからは早かった。
曹参が足の速い者を連れて通りを押さえる。
周苛が縄を配る。
蕭何は数人を連れて、まっすぐ役所の奥へ向かった。
「倉じゃないのか」
俺が聞くと、蕭何は歩きながら答えた。
「戸籍が先です。人を縛る紙を押さえれば、役所の力は半分消えます」
「飯は?」
「あとで食べられます」
「紙は食えないぞ」
「紙を押さえないと、人が食えなくなります」
言っていることは怖い。
だが、正しい気がした。
役所の前では、数人の兵が抵抗した。
「反逆者だ!」
その声に、家々の戸が少しずつ開く。
町の者たちが、暗がりからこちらを見ていた。
ここで血を流せば、町は敵になる。
俺は息を吸った。
「樊噲!」
「おう!」
「死体を作るな。朝までに噂になる」
「また難しい!」
そう言いながら、樊噲は前に出た。
肉切り包丁の背で槍をはじく。
肩で兵を押し飛ばす。
足を払って転がす。
派手だ。
怖い。
だが、確かに殺してはいない。
その時だった。
役所の脇から、別の兵が飛び出した。
手には短い槍。
狙いは俺ではない。
西門を開けた任敖だった。
「裏切り者!」
叫びと同時に槍が走った。
任敖の横にいた丁礼が、先に動いた。
あの若い見張りだ。
囚人護送の夜、俺の共犯に残ると言った男だ。
丁礼は任敖を押した。
槍は、任敖ではなく丁礼の胸に入った。
時間が、一瞬だけ止まった。
任敖が倒れる。
丁礼も倒れる。
俺の口から、声が出なかった。
樊噲が兵を叩き伏せた。
曹参が駆け寄る。
任敖の脇腹から血が出ていた。
丁礼は、仰向けになったまま、空を見ていた。
「……生きてるか」
俺は聞いた。
どちらのことを聞いたのか、自分でも分からなかった。
「任敖は息があります」
曹参が答えた。
その後の言葉はなかった。
なくても分かった。
丁礼は死んでいた。
俺は奥歯を噛んだ。
血を見せるな、と言った。
死体を作るな、と言った。
誰も死なせない、とも言った。
だが、死んだ。
俺の口は、いつも俺より先に走る。
その口から出た言葉に、今度は俺自身が追いつけなかった。
戦にしないつもりで町に入っても、人は死ぬ。
「布を持ってこい。水もだ。任敖を運べ」
俺は言った。
それから、丁礼を見た。
「……丁礼も、運べ」
声が少し震えていた。
だが、止まるわけにはいかなかった。
役所の裏口では、県令が逃げようとしていた。
蕭何の連れていた男たちが、すでに取り押さえている。
「劉邦!」
県令は俺を見て叫んだ。
「貴様、自分が何をしているか分かっているのか!」
「分かっていたら、たぶんやってない」
これは本音だった。
県令はさらに何か叫ぼうとした。
俺は遮った。
「縛れ。殺したら、そいつの親兄弟まで敵になる」
周囲の者が動いた。
その時、通りの奥で別の騒ぎが起きた。
俺たちの側の若い男が、民家の戸を蹴っていた。
「中に役人が隠れてる!」
違う。
あれは言い訳の声だ。
中に何があるか知っている声ではない。
何かを取りたい奴の声だ。
「樊噲!」
俺が言うと、樊噲は走った。
若い男は、家の中から布をつかんで出てきたところだった。
樊噲に首根っこをつかまれ、地面に転がされた。
「民家に入るなと言った」
俺は若い男の前に立った。
「役人がいると思って」
「嘘をつくな。布が欲しかっただけだろ」
若い男は黙った。
家の中では、女が子どもを抱えて震えていた。
その目を見た時、俺は理解した。
この女にとっては、秦の役人も俺たちも同じだ。
夜に武器を持って家の前に立つ男たちだ。
「布は返せ。お前は夜明けまで倉の前で縛っておく。見せしめだ」
若い男が顔を上げた。
「俺は味方です!」
「味方なら命令を聞け」
言ってから、自分の声が思ったより冷たいことに気づいた。
俺たちは役所を押さえた。
蕭何が戸籍を抱えて戻ってきた。
倉も開いた。中身はまだ出していない。
俺は役所の階段に上がった。
町の者たちは、戸の隙間からこちらを見ている。
怯えた顔。疑う顔。期待する顔。
そして、任敖の血を見た顔。
さっきまで少し調子に乗っていた俺は、どこかへ消えていた。
この町を取ったのだと、そこでようやく分かった。
ただ門を開けただけではない。
ここから飯も、罰も、恨みも、全部こちらに来る。
今は言うべきことがあった。
「聞け!」
俺は声を張った。
「民家に入るな。女に触るな。物を取るな。倉の米は勝手に開けるな。秦の役人だった者も、武器を捨てたなら殺すな」
樊噲がこちらを見た。
蕭何も見た。
俺は続けた。
「飯は配る。だが順番を決める。病人、子ども、けが人、働ける者。蕭何が数える。文句がある奴は俺に言え。俺が聞く。全部は叶えられんが、聞くだけは聞く」
町の中が静かになった。
誰かが、小さく言った。
「略奪しないのか」
俺はそちらを見た。
「略奪したら、明日から俺たちが食う飯がなくなる」
少し間が空いた。
安心したような息が、いくつか漏れた。
だが、笑い声はなかった。
夜明けの頃、沛県は俺たちの手にあった。
成功した。
けれど役所の床には、任敖の血と、丁礼が倒れた跡が残っていた。
俺はそれを見て、初めて思った。
町を取るというのは、勝つことではない。
傷を引き受けることだ。




