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第8話 沛県を取れと言われても困る

 役所の兵を一度かわすと、山の中に妙な空気が生まれた。


 勝ったわけではない。

 ただ、逃げ切っただけだ。


 それでも人は、死なずに済むと少し強気になる。


 その強気が、次の面倒を呼んだ。


 沛県から、数人の男が山へ来た。

 市場で見た顔、昔揉め事を仲裁した顔、役所の前で文句を言っていた顔。


 彼らは俺の前に座ると、深く頭を下げた。


「劉邦殿。沛県を取っていただきたい」


 俺は黙った。


 すぐに断るつもりだった。

 町を取るなど、逃亡者のすることではない。

 町を取れば、秦に完全に敵と見なされる。


 いや、もう見なされているか。


 それでも、山で逃げているのと、町を奪うのでは違う。


「理由を言え」


 俺はそう聞いた。


 男たちは少し驚いた顔をした。

 俺がすぐ断ると思っていたのだろう。


「役所が、あなたに関わった者を捕らえ始めています」


 その言葉で、周囲の空気が変わった。


「市場の者、門番、荷運び。噂をしただけの者まで疑われています。次は、あなたの知人や家族にも及びます」


 樊噲が低くうなった。


 俺は手を上げて止めた。


「役所の兵はどれくらいだ」


 男は答えた。


「まともに動ける者は多くありません。ですが、県令は秦の名を使って人を縛ります」


 県令。

 町の一番上の役人だ。


 俺は蕭何を見た。


「沛県を取ったら、食えるか」


 蕭何は即答しなかった。

 それが怖い。


「倉を押さえれば、しばらくは。ただし、略奪を許せば終わります」

「終わる?」

「民が敵になります。倉も空になります。町は持てません」


 俺は樊噲を見た。


「門は破れるか」

「破れる」

「破るな」

「なぜだ」

「門を直すのが面倒だ」


 樊噲は顔をしかめた。


 だが蕭何がうなずいた。


「結果としては正しいです。門は壊すより、開けさせるべきです」

「結果として、とは何だ」

「理由が雑です」


 うるさい。


「門番に知り合いはいるか」


 俺が男たちに聞くと、一人が顔を上げた。


「西門の任敖(じんごう)は、劉邦殿に恩があります」

「どんな恩だ」

「以前、税の件で役所に縛られかけた時、あなたが間に入りました」


 覚えていない。


 多分、面倒だからその場を丸くしただけだ。


 俺は蕭何に言った。


「まず倉だな。飯を押さえれば勝ちだろ」

「いいえ。戸籍が先です」

「飯より紙かよ」

「秦は紙で人を縛ります」


 戸籍。

 誰がどこに住み、どれだけ税を納め、何人の家族がいるかを書いた記録だ。

 秦はそれで人を数え、税を取り、兵に引っ張る。


「倉は飯を押さえます。戸籍は人を押さえます」


 怖い。


 だが、必要だ。


「俺は飯しか見てなかった」

「でしょうね」

「今、少し馬鹿にしたか」

「かなり」


 樊噲が笑った。


 俺は少し考えた。


 山にいれば、いずれ食料が尽きる。

 沛県を放っておけば、役所は俺の知り合いを縛る。

 町を取れば、秦を完全に敵に回す。


 どれも嫌だ。


 なら、一番あとで飯が食える道を選ぶしかない。


「取れるのですか」


 沛県から来た男の一人が、震えた声で聞いた。


「取れる」


 言ってから、俺は蕭何を見た。

 蕭何は、まだ頷いていなかった。


 だが、男たちはもうその言葉を聞いてしまった。


「やる」


 俺が言うと、樊噲が笑った。


「ようやく戦か」

「殺し合いにするな」

「無茶を言う」

「門を開ける。戸籍を押さえる。倉を押さえる。役人は縛る。民家に入るな。食料を勝手に取った奴は、樊噲に運ばせる」


「なぜ俺が運ぶ」

「お前に運ばれるのが一番怖い」


 樊噲は大声で笑った。


 蕭何は、すでに竹簡に人の名を書き始めている。

 曹参は、歩ける者を選んでいた。

 周苛は縄を確かめていた。


 俺が決めると、こいつらは動く。


 それが少し分かってきた。


 怖いが、便利だ。


 その夜、俺たちは沛県へ向かった。


 俺が生まれ、働き、逃げ出した町へ。


 今度は、守るためではない。

 町の鍵を、こちらから奪いに行くために。


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