第7話 俺の知らないところで軍ができていた
蕭何が来てから、山の空気は変わった。
飯の量が見えるようになった。
見張りの順番が決まった。
病人に粥が回るようになった。
水汲みをさぼった奴が、なぜかすぐばれるようになった。
理由は分からない。
蕭何が竹簡を見ると、だいたい誰かが青ざめる。
怖い。
ある夜、俺は火のそばで少しだけ酒を飲んでいた。
少しだけだ。
周囲が思っているほど飲んでいない。
そこへ曹参が来た。
「北の見張りが薄いです」
俺は杯を止めた。
「薄い?」
「二人立つはずが、一人しかいません」
「逃げたか」
「違います。南の水場に回されています」
俺は蕭何を見た。
蕭何はすでに竹簡を開いていた。
「私の表では、北に二人、南に三人です」
「実際は?」
「北に一人、南に四人。誰かが勝手に変えています」
樊噲が立ち上がった。
「殴って聞くか」
「座れ」
俺が言うと、樊噲は不満そうに座った。
また殴るところから始めると、話が大きくなる。
俺はそう学び始めていた。
「誰が得をする」
俺が聞くと、蕭何が南の水場の方を指した。
「南は食料置き場に近い。見張りが多ければ、北が薄くなる。北が薄くなれば、山道から人が入れます」
「追っ手か」
曹参がうなずいた。
「可能性があります」
その時、北の方で短い笛の音がした。
見張りの合図だ。
樊噲が今度こそ立ち上がる。
「今度は殴っていいか」
「まだだ。前に出るな。逃げ道をふさげ」
俺は自分でも意外なくらい早く言った。
「樊噲は東の岩場。曹参は足の速い奴を連れて西へ。周苛は火を消せ。蕭何、人数を数えろ。いない奴が内通者だ」
全員が動いた。
俺は動かなかった。
動けなかったとも言う。
しばらくして、北の道から三人の男が捕まった。
秦の役所から来た探りだった。
案内していたのは、昨日山に入ったばかりの男だった。
食料を多くもらう代わりに、道を教える約束をしていたらしい。
樊噲は本気で殴りたそうだった。
俺も少しだけ、殴らせていいかと思った。
だが蕭何が先に言った。
「殺せば、それで終わります。使えば、役所の動きが分かります」
ひどいことを言う。
しかし正しい。
俺は内通した男の前にしゃがんだ。
「役所は、いつ来る」
「……三日後」
「人数は」
「二十ほど。町の兵と役人です」
「道は」
「北から」
俺はうなずいた。
「じゃあ、あいつに嘘を持たせて逃がすか」
口にしてから、少しだけ安心した。
嘘なら得意だ。
本当にするのは、だいたい他の奴の仕事になる。
問題は、戦でそれをやると他の奴が死ぬことだった。
俺が言うと、蕭何がすぐに言った。
「雑です」
「雑じゃない嘘ってあるのか」
「あります。逃げたくなる嘘です」
意味が分からなかった。
蕭何は続ける。
「ただ東へ逃げたと言わせても弱い。東に食料を移した、足の遅い者も東へ動いた、と言わせます。役所は捕まえやすい相手を追いたがる」
曹参が言った。
「北の足跡は消します。東にはわざと荷車の跡を残せます」
周苛も言う。
「余った縄を東の木にかけておけば、そこにいたように見えます」
樊噲が首をひねった。
「つまり、どういうことだ」
俺は胸を張った。
「俺の案が良かったということだ」
蕭何が冷たく言った。
「原型はほぼ残っていません」
「残ってる。嘘を持たせて逃がすところは残ってる」
「そこだけです」
そこだけでも十分だろ。
俺は内通した男に言った。
「お前は明日、山を下りろ。役所には、俺たちが東へ逃げたと言え。食料も、足の遅い者も東だ。そう言え」
男は目を見開いた。
「逃がすのですか」
「戻らなければ、お前の嘘がばれる。戻れば、嘘を使える」
俺は樊噲を見た。
「ただし、逃げ足が変な方向へ向いたら捕まえろ」
「任せろ」
蕭何が竹簡に書き込む音がした。
「今のは、かなり危うい策です」
「分かってる」
「戻った男が、本当の位置を言う可能性もあります」
「その時は?」
「こちらが死にます」
さらっと怖いことを言う。
翌日、内通者は山を下りた。
俺は一日中、腹が痛かった。
酒を飲んでも痛かった。
つまり、かなり痛かった。
そして二日後、役所の兵は東の山道へ向かった。
俺たちは、その間に北の道を固めた。
水場には見張り。
食料置き場には二重の番。
逃げ道には目印。
足の遅い者のために、先に荷を軽くする。
気づけば、ただの逃亡者の集まりではなくなっていた。
見張りがいる。
役目がある。
合図がある。
食料の管理がある。
嘘を流す役までいる。
俺は蕭何に言った。
「これ、軍じゃないか」
「まだ軍とは呼べません」
「じゃあ何だ」
「軍になる前の、面倒なものです」
言い方。
だが、否定はできなかった。
俺の雑な思いつきが、蕭何や曹参や周苛の手を通ると、なぜか策らしくなる。
便利だ。
怖いほど便利だ。
そして軍になるということは、もう逃げるだけでは済まないということだった。




