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第6話 蕭何、帳簿を持って逃げてくる

 人が増えると、飯が減る。


 当たり前の話だ。

 だが、当たり前の話ほど、実際に起きると腹が立つ。


 ある朝、食料袋が一つ消えていた。


 周苛は青い顔をしていた。

 曹参は黙って周囲を見ていた。

 樊噲は、すでに誰かを殴りそうな顔をしていた。


「待て、樊噲」


 俺は先に止めた。


「袋が消えたんだぞ」

「だから、殴る相手を間違えるな。袋は戻らず、けが人だけ増える」

「じゃあどうする」

「……並べる」


 言ってから、自分でも雑だと思った。


 全員を並べて、樊噲ににらませる。

 たぶん何人かは吐く。

 犯人以外も吐く。

 それで余計に分からなくなる。


 やめた方がいい。


 そう思った時、山道の下から声がした。


「相変わらず、管理が雑ですね」


 聞き覚えのある声だった。


 木々の間から、一人の男が現れた。

 細い体。落ち着いた目。背には荷物。手には竹簡の束。


蕭何(しょうか)


 沛県の役所で働いていた男だ。

 数字と記録を扱わせたら、役所の中で一番怖い。


「お前まで来たのか」

「来ました」

「役所は」

「出ました」

「理由は」

「あなた一人では、三日で全員飢えるからです」


 樊噲が笑った。


「言われてるぞ、劉邦」

「うるさい」


 蕭何は挨拶より先に、食料置き場へ向かった。

 袋を数え、縄の結び目を見て、地面の跡を見て、周苛に昨日の配分を聞く。


 俺たちは黙って見ていた。


 蕭何が竹簡を開くと、空気が少し冷える。

 役所でもそうだった。

 数字を見ているだけなのに、なぜか人を問い詰めているように見える。


「一袋消えたのではありません」


 少しして、蕭何は言った。


「三日前から、少しずつ抜かれています。今朝、袋ごと隠されたので目立っただけです」


 周囲がざわついた。


「分かるのか」


 俺が聞くと、蕭何は竹簡を指で押さえた。


「周苛殿が数えていた分と、実際の減り方が合いません。人数の増加を入れても、豆が多く消えています。干し肉は逆に減りが少ない。盗んだ者は火を使うのを避け、豆をそのまま持ち出したのでしょう」


 樊噲が眉をひそめた。


「何を言ってるのか分からん」

「犯人は豆を盗みました」

「最初からそう言え」


 俺もうなずいた。


「俺にも最初からそう言え」

「言いました」

「長かった」


 蕭何は曹参を見た。


「昨日、水汲みに行った者の中で、今日まだ粥を取りに来ていない者がいます」


 曹参がすぐに動いた。

 木の裏に隠れていた若い男が引きずり出される。


 男は小さな袋を抱えていた。

 中には豆が入っていた。


 樊噲が一歩出た。


「待て」


 俺はまた止めた。


 若い男は震えている。

 逃げる顔ではない。腹を空かせた獣の顔でもない。

 ただ、追い詰められた顔だ。


「誰に食わせるつもりだった」


 男は唇を震わせた。


「母が、下の村にいます。役所に米を取られて……」


 樊噲の拳が止まった。

 周囲の怒りも、少しだけ行き場をなくした。


 蕭何が言う。


「話が本当なら、母親もここに連れてくるべきです。下の村に隠したままでは、また盗みます」

「嘘なら?」

「曹参殿に見に行かせれば分かります」


 曹参は何も言わずにうなずいた。


 俺は若い男に言った。


「豆は戻せ。お前は三日、水汲みと薪集めを倍やれ」


 男は顔を上げた。


「それで、いいんですか」

「よくはない。次はない。あと、母親がいるなら連れてこい。隠しておくとまた俺の豆が減る」


 蕭何が竹簡に何かを書いた。


「今の処分を記録します」

「処分ってほど立派なもんじゃない」

「立派かどうかは関係ありません。次に同じことが起きた時、基準になります」


 基準。


 嫌な言葉だった。

 なんとなく許したり、なんとなく怒ったりできなくなる。


「この人数を動かすには、気分では無理です」


 蕭何は続けた。


「飯、仕事、罰、許し。形にしなければ崩れます」


 俺は竹簡の束を指さした。


「なら、お前がやれ」


 蕭何がこちらを見た。


「飯と人は任せる」

「本当に私でよろしいのですか」

「俺がやると、飯は減るし、人は怒る」

「自覚があるなら結構です」

「褒められた気がしねえ」


 樊噲が肩を揺らして笑った。


 俺は続けた。


「俺は数字を見ると眠くなる。だが、お前が数字を見ると人が死なない。だからお前がやれ」


 周囲が静かになった。


 蕭何は、ほんの少しだけ驚いた顔をした。


「丸投げですね」

「そうだ」

「隠しもしない」

「隠すと余計に面倒だ」


「では、口にしたことも同じです」


 蕭何が言った。

 竹簡を、こつんと指で叩く。


「言葉は残ります。飯があると言えば、飯を求める者が出る。許すと言えば、次に許される者が出る。違うと言えば、違う証拠を求められる」

「お前、俺の首に縄をかけるのがうまいな」

「縄ではありません。記録です」

「もっと嫌だ」


 蕭何は深く息を吐いた。


「分かりました。では、まず全員の名前を聞きます。出身、できる仕事、家族の有無、けがの有無。嘘をついた者は、後で必ず困ります」


 その日から、俺たちの集団には名前と役目ができた。


 蕭何が名前を聞く。

 曹参が顔を覚える。

 周苛が荷と縄を見直す。

 樊噲が、揉めそうな奴の前に立つ。


 俺は火のそばで、それを見ていた。


 誰かがこちらを見たので、俺は言った。


「俺を見るな。分かる奴の言うことを聞け」


 それで、少しだけ集団が動き始めた。


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