第5話 肉屋の樊噲、加入
山の下から、肉を担いだ男が上がってきた。
普通ではない。
追っ手かと思った。
罠かとも思った。
だが、近づいてきた顔を見て、俺は少しだけ頭が痛くなった。
「樊噲」
沛県の市場で肉を売っている大男だ。
腕は太い。声は大きい。怒ると怖い。
そして、昔から俺の知り合いである。
樊噲は俺を見るなり、にやりと笑った。
「劉邦。とうとう役所を敵に回したか」
「回したくて回したわけじゃない」
「お前は昔からそうだ。自分から火をつけた顔はしていないのに、気づくと家が燃えている」
「ひどい言い方だな」
「間違っているか」
間違ってはいない。
樊噲は肩の荷を下ろした。
包みの中には肉があった。
火の周りにいた連中の目が変わった。
腹が減っている人間の前に肉を置くのは、剣を置くより危ない。
「待て」
俺は先に言った。
「周苛、数を見ろ。子どもと病人からだ。樊噲、切り分けろ。お前が持ってきた肉だ。お前が一番薄く切れ」
樊噲は眉を上げた。
「俺が切るのか」
「肉屋だろ」
「そういう時だけ俺を使うな」
「そういう時に使わないなら、何のための肉屋だ」
「お前、ほんとに最低だな」
「便利だろ」
樊噲は大声で笑った。
「いいぜ。薄く切ってやる。泣くほど薄くな」
実際、樊噲は肉を薄く切った。
腹を満たすには足りないが、火であぶった肉の匂いだけで、空気が少し緩んだ。
人は、匂いだけでも少し生き返る。
夜になってから、俺は樊噲に聞いた。
「なんで来た」
「お前が山で死にかけてると聞いた」
「死にかけてはいない」
「肉もないのに?」
「……少し死にかけていた」
樊噲は鼻で笑った。
「沛県じゃ、お前の噂で持ちきりだ。囚人を逃がした。役人を捨てた。山に人を集めた。秦に逆らうつもりだってな」
「最後のは、もう否定するのも疲れた」
「否定しても、向こうはそう見る」
樊噲の声は、思ったより低かった。
「役所は兵を出す気だ。お前らを捕まえて、見せしめにする」
火がはぜた。
周囲の者たちが、聞こえないふりをしている。
だが全員、聞いている。
「だから、お前は帰れ」
俺は言った。
「肉だけ置いて帰れば、まだ言い訳できる。俺と関わったと言われたら面倒だ」
「肉だけ置いて帰れって、お前な」
「ついでに塩もあれば置いていけ」
「あるわけねえだろ」
樊噲は呆れた顔をした。
だが、怒ってはいなかった。
「劉邦」
「なんだ」
「お前、俺が昔、市場で役人を殴りかけた時のことを覚えてるか」
「覚えてる。殴りかけたんじゃない。半分殴ってた」
「その時、お前は役人に謝らせた」
「お前も謝らせた」
「そうだ。俺も謝った。だが、お前は俺だけを縛らなかった」
そんなこともあった。
役人が樊噲の肉を勝手に持っていこうとして、樊噲が切れた。
俺は両方を止めて、役人には代金を払わせ、樊噲には肉を一枚余分に焼かせて、その場を収めた。
立派な判断ではない。
市場で血を見ると、後始末が面倒だっただけだ。
「俺はその時、思った」
樊噲は言った。
「こいつは強い奴を、ただの棒みたいには使わねえ」
「棒?」
「殴るためだけに使って、折れたら捨てる奴がいる。お前はそうじゃなかった」
俺は黙った。
「だから来た」
樊噲は肉切り包丁を地面に突き立てた。
「お前が逃げるなら、道を開けてやる。戦うなら、前に立ってやる。腹が減ったら、肉も切ってやる」
「便利だな」
「便利に使え」
その言い方が、少しおかしかった。
俺は笑ってしまった。
「なら、まず荷物を持て」
「戦じゃねえのか」
「戦は疲れるだろ」
「見張りは?」
「荷物を持ってからだ」
「お前、ほんとに最低だな」
「便利だろ」
樊噲は文句を言いながら荷物を持った。
普通の男なら二人で担ぐ袋を、片手で持つ。
やはり便利だった。
ただし、便利なものほど、雑に使うと壊れる。
樊噲は物ではない。そこだけは分かっていた。
「見張りも頼む」
「今度は頼むのか」
「お前が最初に殴ると、たいてい話が大きくなる。だから殴る前に見つけてくれ」
樊噲は不満そうな顔をした。
だが、立ち上がった。
「分かった。見張ってやる」
この日、樊噲が加わった。
ただの強い肉屋ではない。
俺が逃げる時、前に立って道を作る男が来た。
そして同時に、俺は理解した。
沛県の役所が本気で来るなら、山で待っているだけでは負ける。
逃げるか。
戦うか。
それとも、先に手を打つか。
俺は火の前で、初めて自分から考えることになった。
正直、考えるのは苦手だった。
だから早く、考えるのが得意な奴が欲しかった。




