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第10話 俺、沛公と呼ばれる

 沛県を取ってから、俺の仕事は増えた。


 山の暮らしでは、飯と見張りと逃げ道を考えればよかった。

 町を取ると、町の問題が全部こちらへ来る。


 倉の米。

 逃げた役人。

 秦に味方していた者。

 夜の門番。

 兵と民の揉め事。


 どれも、放っておくと火になる。


 最初に来たのは礼ではなかった。


 役所の前に、女が座っていた。

 夜明け前からずっとだ。

 抱えているのは、血のついた布だった。


「うちの人は、命令で門に立っていただけです」


 昨夜、樊噲が転がした門番の妻だった。

 男は死んではいない。だが肩を外し、口の中を切っていた。


 その後ろに、もう一人、年かさの女が立っていた。

 丁礼の母だと、曹参が小声で教えた。

 女は泣いていなかった。

 泣いている者より、その顔の方が怖かった。


「うちの子は、あなたについていったんですか」


 俺はすぐに答えられなかった。


 その時、人垣の端から呂雉が出てきた。

 いつの間に来たのか分からない。

 俺の妻は、こういう時に限って逃げ道を塞ぐ場所にいる。


「劉邦」

「今か」

「今よ」


 呂雉は丁礼の母を見てから、俺を見た。


「まず、名前を呼びなさい。死んだ者を、ただの数にすると、秦と同じになるわ」


 俺は喉の奥が詰まった。


「丁礼は、任敖を押して死んだ」


 言葉にすると、血の匂いが戻ってきた。


「俺が、誰も死なせないと言ったせいで、あいつは前に出たのかもしれない」


 丁礼の母は、何も言わなかった。

 その沈黙は、怒鳴られるより痛かった。


「治療させる。飯も出す」


 俺が言うと、女は顔を上げた。


「秦の役人も、同じことを言いました」


 役所の前が静かになった。


 樊噲も黙っていた。

 蕭何も筆を止めていた。


 俺たちは秦ではない。

 そう言いたかった。


 だが、夜に武器を持って門を開け、役所を押さえた。

 民から見れば、新しくやって来た怖い連中に見えてもおかしくない。


「俺たちは秦とは違う」


 口から出た。


 言ってから、しまったと思った。

 違うかどうかなんて、まだ俺にも分からない。

 夜に武器を持って門を開けた時点で、女から見れば同じ穴の獣だ。


 だが、女はその言葉を聞いた。

 樊噲も、蕭何も、周りの者たちも聞いた。


 なら、もう逃げられない。


「違わなかったら、その時に罵れ」


 女は答えなかった。

 それでよかった。


 嘘は、口から出した時は軽い。

 だが、聞いた者がいると急に重くなる。


 役所の中に戻ると、蕭何が竹簡を並べていた。


「倉の米です」

「配れ」

「全員には足りません」

「じゃあ、死にそうな順にしろ」


 蕭何の目が細くなった。


「病人、子ども、けが人を先に。兵には定量。働ける者には仕事と引き換え。そういう意味でよろしいですね」

「そういう意味にしてくれ」

「責任は」

「俺が持つ」

「失敗すれば恨まれます」

「もう恨まれてる」


 昼になると、役所の前に町の者たちが集まった。


 米を求める者。

 捕まった家族を返せという者。

 秦の役人に恨みを持つ者。

 逆に、役人だった親族を殺さないでくれと泣く者。

 戸籍を押さえられたと聞いて、顔を青くしている者。


 全部が一度に来る。


 俺は役所の階段に立った。

 横に樊噲が立つと、町の者たちは少し静かになった。


「聞け」


 声は思ったより大きく出た。


「秦の役人だった者を、勝手に殺すな。恨みがあるなら俺に言え。蕭何が記録する。盗まれた物があるなら申し出ろ。嘘なら罰する。本当なら、返せるものは返す」


「全部返せるのか!」


 誰かが叫んだ。


「無理だ!」


 俺は即答した。


 町がざわついた。


「米も金も、ないものは出せない。だが、強い奴から先に笑わせるのはやめる。泣くなら、弱い奴から先に拾う」


 自分で言って、なんだその言い方はと思った。

 泣く順番を決めるなど、ろくでもない。

 だが、何もしなければ、泣き声の小さい者から潰れる。


 町の者たちは聞いていた。


 門番の妻が言った。


「それを信じろと?」


「信じなくていい」


 俺は言った。


「だが、俺は今そう言った。言った以上、蕭何が俺を逃がさない」


 蕭何が静かに筆を置いた。


「逃がしません」


 女は何も言わなかった。


 文句はあるだろう。あるなら順に言え。叫んでも米は増えん。順に言えば、蕭何が覚える。


 蕭何は何も言わず、竹簡を開いた。


 その時、集まった者たちの中から、老人が一歩前に出た。


「劉邦殿」


「何だ」


「沛県を治めるなら、呼び名が必要です」


「呼び名?」


「亭長では、もう足りません」


 嫌な予感がした。


 老人は言った。


「沛県の公。沛公(はいこう)とお呼びしてはどうでしょう」


 周囲がざわついた。


 沛公。

 沛県の頭領、という意味だ。


 亭長の次が、いきなり公。

 出世というより、崖から突き落とされた気分だった。


「公ってのは、飯が多く出る役か」

「違います」


 蕭何が即答した。


「酒は」

「出ません」

「女は」

「出ません」

「じゃあやめる」

「やめられません」


 樊噲が腹を抱えて笑った。


「いいじゃねえか、沛公。肉屋より偉そうだ」

「お前と比べてどうする」


 蕭何が横から言う。


「呼び名は必要です。命令を出すにも、文書を出すにも、ただの劉邦では通りません」

「お前まで」

「私情ではありません。実務です」


 実務と言われると弱い。


 町の者たちが、少しずつその名を口にし始めた。


 沛公。

 沛公。

 沛公。


 その声は、全部が歓迎ではなかった。

 期待もある。

 不安もある。

 値踏みもある。


 名前がつくと、人はそこに勝手なものを乗せる。

 乗せられると、やらないわけにはいかなくなる。


 さっきまで、酒は出るのかなどと聞いていた口が、急に重くなった。


 夕方、蕭何が役所の奥から戻ってきた。

 手には、焼け残った急報があった。


「県令が処分し損ねた文書です」


「悪い知らせか」

「良い知らせなら、燃やしません」


 蕭何は竹簡を俺の前に置いた。


 東の道で、秦の兵が大きく崩れた。

 反乱軍の一部が、()の名を掲げている。

 楚。かつて秦に滅ぼされた国の名だ。


 俺が文字を追っていると、役所の裏から声がした。


 捕らえていた秦兵の一人が、縛られたまま笑っていた。

 昨夜、役所で押さえた兵だ。東の方から命令を運んできたらしい。


「読むだけ無駄だ」


 兵はかすれた声で言った。


「東の道は、もう秦の道じゃない」


 樊噲が近づく。


「誰がいる」


 兵は笑うのをやめた。

 唇が震えていた。


項羽(こうう)


 その名を口にした瞬間、場の空気が変わった。


「秦の兵が、その旗を見ただけで列を崩した。城門を破ったんじゃない。門の前にいた兵ごと、押し潰した」


 樊噲が鼻を鳴らした。


「話を盛ってるな」


 兵は首を振った。


「嘘なら、逃げてきた兵があんな顔をするか」


 戦えば、必ず勝つ男。


 そんな人間がいるわけがない。


 だが、その兵は冗談を言っている顔ではなかった。


 俺は、さっきまで自分についた名前を思い出した。


 沛公。


 笑えるほど重い名だと思った。


 だが東には、名前より先に恐怖が走る男がいる。


 俺が人を集めてどうにか町を抱え込んでいる頃。


 項羽という男は、正面から秦を叩き潰していた。


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