第11話 項羽という化け物
後に、その戦を見た兵たちは、口をそろえて言った。
項羽は、敵の数を聞いて笑った。
笑った、と言っても、楽しそうな笑いではない。
目の前に大きな石があるから蹴る。
道の真ん中に壁があるから壊す。
そのくらい自然な笑いだった。
「こちらの三倍です」
兵が言った。
声が震えている。
項羽は馬上から、遠くに並ぶ秦の旗を見た。
旗は多い。
槍も多い。
人も多い。
だが、多いだけだ。
数が多いものは、押せば崩れる。
崩れたものは、踏めば割れる。
割れたものは、二度と同じ形には戻らない。
項羽はそう思っていた。
項羽は若かった。
若いというより、戦場の中でだけ年を取らないように見えた。
砂を浴びても、鎧に血が乾いても、顔の線が崩れない。
怒鳴らなくても人が見る。
笑わなくても、兵の胸の奥で何かが勝手に熱くなる。
それが良いことかどうかを、項羽は考えたことがなかった。
「三倍か」
「はい」
「なら、三倍働け」
兵が返事を忘れた。
項羽はそれを待たず、槍を持ち直した。
風が吹いた。
砂が舞った。
秦の陣から太鼓が鳴る。
こちらの兵の何人かが、無意識に一歩下がった。
項羽は、その音を聞いた。
鎧の鳴る音。
足が地を擦る音。
人が怯えた時の、あの小さな音。
項羽は馬の首を撫で、低く言った。
「下がるな」
声は大きくない。
だが、近くの兵たちは一斉に顔を上げた。
「俺の後ろにいろ」
項羽は馬腹を蹴った。
誰も命令を理解する暇がなかった。
項羽だけが前へ出た。
秦の兵たちが、一瞬ざわめいた。
普通なら、先に矢を浴びせる。
陣形を整え、盾を並べ、太鼓で合図をする。
だが、項羽はその普通が整う前に来た。
秦兵の一人が、矢をつがえる手を止めた。
怖かったからではない。
何がこちらへ来るのか、見てしまったからだ。
次の瞬間、その兵の前にあった盾が割れた。
割れた、というより、消えた。
盾を構えていた秦兵ごと、横へ飛んだ。
その後ろの兵が転び、さらに後ろの兵が足を止める。
止まった場所へ、項羽が入った。
戦場に穴が開く。
項羽はその穴を広げた。
叫び声が上がる。
秦兵のものか、楚兵のものか、分からない。
ただ一つ分かるのは、項羽の前にいた者から順に倒れていくことだった。
「続け!」
ようやく項羽の兵が動いた。
彼らは勇敢だった。
いや、勇敢になった。
兵たちは、項羽の背を見た。
広い背ではない。
ただ、そこだけ戦場がまっすぐだった。
あの背中の後ろにいれば、自分も物語の中に入れる気がした。
だから足が動いた。
項羽はそれを知っていた。
兵には言葉より背中を見せる。
恐れた者には、恐れる暇を与えない。
敵には、考える時間を与えない。
勝てばいい。
項羽はそう思っていた。
勝てば、兵はついてくる。
勝てば、敵は黙る。
勝てば、道は開く。
それ以外のことは、勝ってから考えればいい。
秦の将が叫んだ。
だが、その声は途中で切れた。
項羽の槍が、将の旗を支える柱を折ったからだ。
旗が落ちる。
それだけで秦兵の列が崩れた。
項羽は落ちた旗を見下ろした。
秦の旗だ。
大陸を法で縛り、人を数え、村を絞り、道を敷き、逆らう者を殺してきた国の旗。
強い国だった。
だが、旗は折れば落ちる。
項羽は馬を止めなかった。
秦兵が逃げる。
味方が追う。
泥を踏み、血を踏み、壊れた車を越えて、戦場が一方向へ流れていく。
その中心に項羽がいた。
項羽は汗を拭わなかった。
血も拭わなかった。
自分のものか敵のものか、区別する必要がなかった。
血が頬を伝っても、目だけは澄んでいた。
その目を見た秦兵が、逃げる前に一瞬だけ足を止めた。
殺されると分かっているのに、見てしまう。
それが項羽だった。
戦が終わる頃、楚の兵たちは項羽の名を叫んでいた。
「項羽!」
「項羽!」
「項羽!」
その声には、恐怖だけではないものが混じっていた。
憧れだ。
自分もあの背中の後ろにいれば、少しだけ強い人間になれる。
そう信じたがる声だった。
項羽はその声を聞いて、初めて少し笑った。
恐れは消えた。
敵も消えた。
道は開いた。
それでいい。
遠く西に、劉邦という男がいることを、項羽はまだよく知らなかった。
田舎の役人上がり。
逃げた囚人を連れて、なぜか町を取った男。
人を殺さず、降る者を受け入れているらしい男。
項羽にとって、それはまだ小さな噂だった。
噂は、踏まなければ消えない。
項羽は秦の折れた旗を越え、次の敵を見た。
勝てばいい。
項羽という男は、その時、本気でそう思っていた。




