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第12話 勝てばいいと思っている男

 これは後に、楚から降った兵に聞いた話だ。


 細かい言葉は、聞いた者によって少しずつ違った。

 だが、誰もが同じことを言った。


 項羽は、勝った後ほど前を見ていた。


 戦の後には、声が残る。


 勝った兵の笑い声。

 傷ついた者のうめき声。

 水を求める声。

 死んだ者の名を呼ぶ声。


 項羽は、その中を歩いた。


 楚の兵たちは道を開ける。

 血を浴びた若い兵が、膝をついたまま顔を上げた。


「将軍、敵の旗を取りました」


 兵の腕は震えていた。

 傷も浅くない。

 だが、目だけは項羽を見ている。


 項羽はその兵の名を聞いた。


 兵は驚いた顔をした。


「名を言え」

「季布の隊の、丁と申します」

「丁。覚えた」


 それだけで、兵の顔が変わった。


 項羽は勇敢な者を嫌いではない。

 むしろ好きだった。

 前に出る者。震えても逃げない者。自分の足で立つ者。

 そういう者には、飯を分ける。名を覚える。褒める。


 だから兵は項羽についてきた。


 恐ろしいからだけではない。

 勝つからだけでもない。

 項羽の前で勇敢に立てば、自分が何者かになれる気がするからだ。


 その気分を、項羽は与えられた。

 与えている自覚は、あまりなかった。


 項羽が近づくと、兵たちは背を伸ばす。

 血にまみれた顔を拭う。

 震えていた手を隠す。

 弱いところを見せたくなくなる。


 美しいものの前では、人は少しだけ自分を飾りたがる。

 項羽は、戦場でそういう目を向けられる男だった。


 だが、降った秦兵たちを見る目は違った。


 縄でつながれた秦兵が、地面に座らされている。

 数は多い。

 多すぎる。


 その一人が顔を上げた。


「我らは降りました。命だけは」


 項羽は返事をしなかった。


 降った。

 だから何だ。


 昨日まで秦の旗の下で人を縛り、村を焼き、法を振りかざしていた者たちだ。

 負けた途端に膝をつき、命だけはと言う。


 項羽には、それが薄く見えた。


 秦は楚を滅ぼした。

 項家の名も、故郷の誇りも、勝った者の理屈で踏まれてきた。

 負けた者の言葉が聞かれないことを、項羽は早くから知っていた。


 だからこそ、先に勝つ。

 勝ってからでなければ、何を言っても風に消える。


 それが項羽の理屈だった。


 背後で、老人の声がした。


「将軍」


 范増(はんぞう)だった。


 白い髭の軍師である。

 項羽に物を言える数少ない人間だった。


「降兵をすべて殺せば、次の城は降りませぬ」

「ならば、攻めればよい」

「攻めるたびに兵が減ります」

「勝てば増える」

「勝つだけでは足りませぬ」


 項羽は振り返った。


 周囲の兵が息を止める。

 范増だけが、目を逸らさなかった。


「またそれか」

「何度でも申し上げます」


 范増はゆっくり言った。


「天下を取るには、敵を倒すだけでは足りませぬ。倒した後に、残った者をどう立たせるかです」

「立ちたい者は立つ」

「立てぬ者もおります」

「ならば、倒れたままでいい」


 項羽の言葉は短かった。


 范増は少しだけ眉を寄せた。


「将軍は強すぎます」

「悪いことか」

「人は、強すぎる光の前では、自分の影を見失います」


 項羽は笑った。


「影など、戦にはいらぬ」

「戦にはいらずとも、国には要ります」

「国も勝てば従う」

「一度は」

「一度で足りる」

「天下は、一度では終わりませぬ」


 風が吹いた。

 血の匂いが流れる。


 項羽は降兵を見た。


 震えている者。

 泣いている者。

 目だけを動かして逃げ道を探す者。


 彼らを生かせば、飯がいる。

 見張りがいる。

 裏切りもある。

 不満も出る。


 面倒だ。


 項羽は、面倒を面倒なまま置いておくのが嫌いだった。

 邪魔なものは斬る。

 壁は破る。

 旗は折る。


 それが一番早い。


「勝てば従う」


 項羽は言った。


 范増は黙った。


 黙ったが、納得した顔ではなかった。


 項羽には分かっていた。

 范増は賢い。

 賢い者の言うことには、だいたい理がある。


 だが、理があることと、項羽がその通りにすることは別だった。


 項羽は前へ進む。

 立ちはだかるものを壊す。

 壊せば道ができる。

 道ができれば、兵はついてくる。


 それでこれまで勝ってきた。


 これからも勝つ。


 遠くで、降兵の一人が泣き出した。


 項羽はその声を聞いても、表情を変えなかった。


 勝てばいい。


 勝ってから考える。


 項羽は、まだその考えを疑っていなかった。


 その夜、縄を抜けた秦兵が数人、西へ逃げた。

 彼らは項羽の名を口にしながら走った。

 恐怖だけではない。

 見てしまったものから逃げる時、人はその名を忘れられない。


 彼らの一部が、やがて劉邦の軍へ降ることになる。


 項羽が壊した場所から、人も、噂も、恐怖も、西へ流れていった。


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