第13話 秦を倒す流れに乗るしかない
反乱というものは、始める時より、やめる時の方が難しい。
俺はそれを、沛県を取ってから知った。
最初は逃げただけだった。
囚人が逃げた。俺も死ぬ。なら逃げる。
その程度の話だった。
それが、山に人が集まり、町を取り、役所に座ることになった。
座ってみて分かった。
役所の椅子というのは、座り心地が悪い。
責任が尻から染みてくる。
「また人が来ました」
曹参が言った。
役所の外には、村から逃げてきた者たちがいた。
税を払えなくなった者。
夫を労役に取られた女。
東で項羽に追われ、こちらへ流れてきた秦兵。
ただ飯を求めて来た者。
いろいろだ。
いろいろすぎる。
「帰せ」
「どこへです」
「……それを俺に聞くな」
曹参は困った顔をしなかった。
こいつは困った時ほど、顔から表情が消える。
役所勤めの人間は、たまにそういう顔をする。
その時、門のあたりで小さな声がした。
「ここなら、食えると聞きました」
若い女だった。
痩せた子どもを背負い、もう一人の子どもの手を引いている。
その後ろには、老人が一人いた。
老人の足は腫れていた。歩くたびに、土へ沈むようだった。
俺は女を見た。
「誰に聞いた」
「山の方から来た人です」
「そいつは、どんな顔をしていた」
「顔は覚えていません。ただ、劉邦様のところなら、明日も食えると」
俺は黙った。
明日も食える。
それを言った覚えはある。
あるどころではない。
山で、泣きそうな母親に言った。
飯があるかも分からないのに、口が勝手に言った。
その場を静かにするための嘘だった。
嘘だったはずだ。
なのに、知らない女が、知らない子どもを連れて来ていた。
俺の嘘が、知らない顔を連れてきた。
「……曹参」
「はい」
「飯は」
「足りません」
「言い方を変えろ」
「かなり足りません」
「悪くなったぞ」
子どもが俺を見ていた。
腹が減った子どもの目は、嫌な目だ。
責めていない。
ただ、こちらを見る。
責められるより、よほど悪い。
蕭何が竹簡を持ってきた。
「周辺の町でも、秦への反乱が起きています」
「今それを言うな。飯の話で腹が痛い」
「その腹痛の原因が、反乱です」
「俺の腹を政治に使うな」
蕭何は女と子どもたちを見た。
それから俺を見た。
「入れますか」
「入れなかったら?」
「噂は戻ります。劉邦のところでも食えない、と」
「入れたら?」
「噂は広がります。劉邦のところなら食える、と」
「どっちも悪いじゃねえか」
「どちらも、あなたが作った噂です」
最悪だった。
秦は大きい。
この大陸を法と兵で縛ってきた国だ。
俺は秦を倒すつもりなどなかった。
倒せるとも思っていなかった。
だが、秦の方はそう思ってくれない。
俺たちはもう、秦から見れば反逆者だった。
そして、飢えた者から見れば、飯のある場所だった。
「降れば許されるか」
俺は聞いた。
蕭何は答えなかった。
答えない時の蕭何は、だいたい答えを知っている。
「許されません」
やっぱり知っていた。
「じゃあ、謝れば」
「首が軽くなります」
「気持ちがか」
「物理的に」
嫌な言い方をする。
役所の外で、子どもが泣いた。
母親が口を押さえる。
泣き声が大きくなれば、誰かが怒るからだ。
俺はそれを見た。
秦に戻れば、俺たちは死ぬ。
山へ逃げても、飯が尽きる。
町を捨てれば、ここに集まった連中は散る。
散れば、捕まるか飢えるか、項羽や秦の戦に巻き込まれる。
どの道も面倒だった。
面倒すぎて、逆に一つしかないように見えた。
「秦を倒す流れに、乗るしかないのか」
俺は言った。
言い終える前から、蕭何は筆を動かしていた。
「まだ言い終わってない」
「言う顔でした」
「顔で記録するな」
「声より先に出ることもあります」
周りにいた者たちが、俺を見た。
やめろ。
そんな顔をするな。
俺は立派なことを言ったのではない。
逃げ道を探して、どれも穴だらけだっただけだ。
だが、人は不思議なもので、穴だらけの言葉でも旗にする。
樊噲が笑った。
「とうとう秦を倒すのか」
「とうとうって言うな。昨日まで俺は昼寝を守りたかっただけだ」
「今は何を守る」
俺は少し考えた。
飯。
寝る場所。
嘘をついた相手の顔。
役所の前で泣いた女。
残った囚人たち。
俺の嘘を聞いて、ここまで歩いてきてしまった子ども。
口にすると重くなりそうだったので、別のことを言った。
「俺の首だ」
樊噲はまた笑った。
蕭何は笑わず、竹簡に何かを書いた。
たぶん、首より重いものを書いていた。
その日の粥は、さらに薄くなった。
だが、女の子どもは器を両手で持って、最後まで舐めた。
俺はそれを見ないふりをした。
見ないふりをしたが、見ていた。
嘘は、口から出た時より、歩いて来た時の方が重い。
俺はそのことを、少しだけ知った。




