第3話 逃げたい奴は逃げろ。俺も逃げる
眠れなかった。
眠れるわけがない。
囚人が三人逃げた。
咸陽へ着いても人数は合わない。
途中で報告しても責任は俺に来る。
黙って行っても、最後にばれる。
秦の法はよくできている。
どう転んでも、俺が死ぬようにできている。
焚き火の前で、俺は逃げた三人の縄を見ていた。
ほどかれた結び目。
ぬれた土。
暗い山。
若い見張りが言った。
「亭長殿、明るくなったら追いましょう」
「追って、見つかると思うか」
「……分かりません」
「見つからなかったら?」
「さらに遅れます」
「見つけたとして、また逃げたら?」
若い見張りは黙った。
残った囚人たちも黙っていた。
俺は、その沈黙が嫌だった。
全員が分かっている沈黙だ。
もう終わった。
俺も、こいつらも。
咸陽に行けば罰を受ける。
沛県に戻れば役所に捕まる。
逃げれば追われる。
選べる道は、どれも悪い。
だったら、一番ましな悪い道を選ぶしかない。
俺は立ち上がった。
腰の剣に手をかける。
囚人たちが身構えた。
若い見張りも、俺を見た。
「亭長殿?」
俺は一番近くにいた囚人の縄をつかんだ。
そして、切った。
縄が地面に落ちる。
「……何を」
誰かがつぶやいた。
「逃げたい奴は逃げろ」
俺は言った。
「俺も逃げる」
焚き火の音だけがした。
「咸陽に行っても俺は死ぬ。お前らもたぶん死ぬ。戻っても死ぬ。だったら、ここで別れる」
俺は次の縄を切った。
「ただし、食料は全部持っていくな。水袋も半分は置いていけ。病人を置いていく奴は、俺が覚える」
囚人たちは顔を見合わせた。
俺はさらに続けた。
「周苛」
「……はい」
「荷を分けろ。逃げる奴にも最低限は持たせろ。ただし、残る分も計算しろ」
「俺が、ですか」
「縄を結べるなら、荷もまとめられるだろ」
周苛は一瞬だけ口を開けた。
それから、黙ってうなずいた。
「曹参」
「はい」
「歩けない奴を見ろ。逃げるにしても、残るにしても、足の悪い奴は一人だと死ぬ」
「承知しました」
若い見張りが、慌てて言った。
「亭長殿、これは反乱です」
俺は何か言おうとして、やめた。
秦から見れば、同じだ。
理由が何であれ、命令を捨て、囚人を放す。
それは反乱と呼ばれる。
俺は若い見張りを見た。
「お前も選べ。俺を縛って連れていくか。逃げるか。残るか」
「そんなことを急に言われても」
「急じゃない。俺たちは最初から詰んでいた。気づくのが今になっただけだ」
若い見張りは、ひどく頼りない顔をした。
少し前までの俺も、たぶん同じ顔をしていた。
やがて、一人の囚人が立ち上がった。
「俺は行く」
俺はうなずいた。
「行け」
また一人、立った。
さらに二人。
彼らは俺を見た。
俺は何も言わなかった。
感謝されることではない。
俺は助けているわけではない。
ただ、自分が死にたくないだけだ。
その時、周苛が聞いた。
「亭長。それは命令ですか」
俺は少し考えた。
命令。
そう言えば、責任が来る。
命令ではない。
だが、ただのお願いでもない。
「違う」
俺は言った。
「共犯の募集だ」
何人かが、ぽかんとした。
若い見張りが、泣きそうな顔で笑った。
「それ、言い方が最悪です」
「内容も最悪だ。仲良くしろ」
笑いが少しだけ起きた。
火の音が戻った気がした。
やがて、逃げる者たちは闇へ消えた。
だが、全員は消えなかった。
周苛は荷の横に残っていた。
曹参も座っていた。
足を痛めた男も、何人かの囚人も、若い見張りも残っていた。
「お前らは行かないのか」
俺が聞くと、周苛が言った。
「荷を分けろと言われました」
「もう終わっただろ」
「明日の分がまだです」
曹参も言った。
「足の悪い者を見ろと言われました」
「それも、もういい」
「いいと言われても、まだ見終わっていません」
俺は二人を見た。
何を言っているのか分からなかった。
ただ、二人の顔は、さっきまでの囚人の顔ではなかった。
命令されたから従う顔でもない。
何か役目を持った人間の顔だった。
「亭長殿」
若い見張り――名を丁礼と言った――が言った。
「俺も残ります」
「なんでだ」
「一人で逃げても、たぶん死にます」
それは正しい。
「それに」
若い見張りは、言いにくそうに続けた。
「あなたは、俺たちを全員殺して逃げることもできた。でも、そうしなかった」
俺は焚き火を見た。
そんな立派な話ではない。
殺すのが嫌だっただけだ。
殺した後で眠れなくなるのが面倒だっただけだ。
だが、残った連中は俺を見ていた。
逃げ道を失った者たちの目ではない。
次に何をするのか、俺の口から聞こうとしている目だった。
俺はただの亭長だ。
それでも、口を開くしかなかった。
「明るくなったら山に入る。水場を探す。食えるものを集める。追っ手が来たら逃げる。戦うのは最後だ」
「酒は?」
誰かが聞いた。
俺はそいつを見た。
「あるなら俺が先だ」
今度は、少しだけちゃんと笑いが起きた。
周苛がうなずいた。
曹参がうなずいた。
若い見張りも、残った男たちも、うなずいた。
その夜、俺は最初の仲間を手に入れた。
望んだわけではない。
ただ、役目を投げたら、なぜかそいつらが逃げなかっただけだ。




