第27話 蕭何だけが喜んでいる
漢中へ向かう道は、思った以上にひどかった。
山。
谷。
湿った風。
細い道。
ぬかるみ。
虫。
虫が多い。
なぜ虫は、人が落ち込んでいる時に限って元気なのか。
兵たちは黙って歩いた。
咸陽から離れるほど、顔が暗くなる。
そりゃそうだ。
帝都の近くにいた者が、山奥へ追いやられるのだ。
王と言われても、気分は流罪である。
「漢王」
蕭何が呼んだ。
「やめろ」
「慣れてください」
「慣れたら負けな気がする」
「慣れなければ仕事になりません」
蕭何だけは、なぜか落ち込んでいなかった。
むしろ、少し楽しそうですらある。
怖い。
「お前、この道が好きなのか」
「好き嫌いで見るものではありません」
「じゃあ何で見る」
「守りやすいか、蓄えられるか、出られるか」
嫌な見方である。
山を見て、虫ではなく補給を考えている。
「漢中は悪くありません」
蕭何は言った。
「悪いだろ。見ろ。道が細い。湿ってる。飯がまずそうだ」
「道が細いから守れます。湿っているから米も麦も考えられます。飯は工夫します」
「虫は」
「慣れてください」
慣れたくない。
その日の夕方、最初の逃亡未遂が起きた。
逃げた、というほど派手ではない。
兵が三人、荷を軽くして、列の端から消えようとした。
山に入ったばかりだ。
咸陽の光はまだ頭に残っている。
この湿った山奥で王だの国だの言われても、ついてくる気がなくなるのは分かる。
かなり分かる。
俺も少し帰りたい。
だが、三人はすぐ戻された。
戻したのは樊噲ではない。
殴って連れ戻したわけでもない。
水場にいた曹参と、道を塞いでいた周苛だった。
「なぜ分かった」
俺が聞くと、蕭何は平然としていた。
「昨日から荷が軽くなっていました」
「それだけか」
「逃げる者は、飯より先に履物を確かめます。水場も見ます。ですから、先に押さえました」
「お前、山に入ってからずっとそれを見ていたのか」
「はい」
怖い。
逃げた三人は、俺の前で膝をついた。
ひとりは若い。
顔が青い。
「漢王、俺たちは……」
「言わなくていい」
俺は言った。
言い訳を聞くと、こちらも何か言わなければならない。
面倒だ。
「逃げたい気持ちは分かる。俺も逃げたい」
「漢王」
蕭何が小声で止めた。
「ただ、山で勝手に逃げると迷う。迷うと死ぬ。死ぬと、俺の夢見が悪い」
三人は黙った。
「だから罰だ。明日から水場を覚えろ。道も覚えろ。逃げるためじゃない。逃げる奴を拾うためだ」
樊噲が笑った。
「逃げようとした奴に、逃げる奴を拾わせるのか」
「道を見たんだろ。使え」
蕭何が少しだけ頷いた。
「良い罰です」
「褒めたか」
「使える罰です」
「言い方が怖い」
だが、この小さな騒ぎで分かった。
蕭何は漢中を見ている。
水場を見ている。
逃げる足を見ている。
倉になる場所を見ている。
俺には虫の多い山にしか見えない場所が、蕭何には人を閉じ込め、人を養い、人を出す箱に見えている。
張良も言った。
「項羽は、あなたを閉じ込めたつもりでしょう」
「閉じ込められているが」
「閉じ込められた場所は、守りやすい場所でもあります」
この二人は、物事の悪い面を良い面に言い換えるのがうまい。
詐欺師に向いている。
「つまり、俺たちは負けていないと」
「負けました」
張良は即答した。
「そこは嘘をつけ」
「嘘はあなたの役目です」
ひどい。
だが、蕭何は首を振った。
「負けましたが、終わっていません」
その言葉に、兵たちがまた少し顔を上げた。
蕭何の言葉は、不思議と重い。
俺の言葉はその場を動かす。
蕭何の言葉は、その後の飯と仕事を連れてくる。
「漢中で兵を整えます。倉を作ります。道を見ます。人を数え直します」
「また数えるのか」
「数えなければ、いないのと同じです」
怖いことを言う。
樊噲が荷を担ぎながら言った。
「で、兄貴。いつ戻る」
「俺に聞くな」
「昨日、戻る道くらい誰かが見つけるって言っただろ」
「誰かが、だ。俺ではない」
兵たちの何人かが笑った。
久しぶりの笑いだった。
俺は少しだけ安心した。
笑いは飯の代わりにはならない。
だが、飯がまずくなるのを少し防ぐ。
その夜、俺は蕭何に聞いた。
「本当に戻れると思うか」
「思います」
即答だった。
「ずいぶん簡単に言うな」
「簡単ではありません。ですが、項羽は多くを一度に抱えすぎています」
「強いのにか」
「強いからです」
蕭何は火の向こうで、竹簡に線を引いていた。
「項羽は勝つ場所へ向かいます。勝った後の場所には、あまり残りません」
「俺は残される側か」
「はい」
「ひどい」
「ですが、残された場所には人が残ります。倉も残ります。道も残ります。それを拾う者が必要です」
俺は火を見た。
項羽は前に進む。
俺は後ろに残るものを拾う。
格好悪い。
だが、それで生き残ってきた。
「つまり、俺は拾い物がうまいと」
「言い方は悪いですが、そうです」
「褒めてるのか」
「使える性質です」
褒めてはいない。
翌朝、蕭何はすでに人を割り振っていた。
山道を調べる者。
水場を調べる者。
倉の候補を探す者。
逃げそうな兵を見張る者。
昨日逃げようとした三人は、水場の番に回されていた。
「お前、楽しそうだな」
俺が言うと、蕭何は少しだけ目を細めた。
「乱れているものを整えるのは、嫌いではありません」
「性格が怖い」
「あなたの嘘ほどではありません」
失礼な。
だが、蕭何だけが喜んでいる理由は、少し分かった。
俺たちは山奥へ追いやられた。
負けた。
遠ざけられた。
だが、蕭何にはそこが、作り直せる場所に見えている。
俺には虫の多い山にしか見えない。
それでも、蕭何がそう見るなら、任せるしかない。
「飯と人と道は任せる」
俺が言うと、蕭何は頷いた。
「では、漢王は何を」
「俺は虫に刺されない場所を探す」
「それも大切です」
本気で言っているのか、嫌味なのか分からない。
どちらにせよ、漢中での暮らしは始まった。
山奥の王。
響きは悪くない。
実態は、虫と責任に囲まれた左遷先である。




