第26話 俺、漢王になる。ただし僻地
項羽は咸陽を支配した。
支配した、というより、そこに立っただけで周囲が場所を空けた。
秦を砕いた男が帝都へ入る。
それだけで、咸陽の空気は変わった。
俺たちは、項羽と正面からぶつからずに済んだ。
済んだが、勝ったわけではない。
むしろ、ここからが面倒だった。
項羽は天下を分け始めた。
王。
王。
また王。
土地を分け、名前を与え、兵を動かし、かつて秦に従っていた者、秦に滅ぼされた者、項羽に従った者を並べ直していく。
俺は思った。
人に名前をつけるのは怖い。
俺も沛公と呼ばれた時から、面倒が増えた。
項羽は、その面倒を天下中に配っている。
そして、俺にも配られた。
「劉邦を、漢王とする」
その言葉を聞いた瞬間、俺の周りが少しざわめいた。
漢王。
王である。
字面だけなら、かなり偉い。
飯が増えそうだ。
酒も増えそうだ。
女は、まあ、張良と蕭何がいるので難しい。
「悪くないのでは」
俺が小さく言うと、蕭何が首を振った。
「土地を聞いてからにしてください」
嫌な予感がした。
与えられた土地は、漢中だった。
同じ読みで、関中という土地がある。
関中は、咸陽を含む豊かで強い土地だ。
秦の中心で、ここを持つ者は強い。
漢中は違う。
山である。
谷である。
道が細い。
遠い。
湿る。
虫が多そうだ。
俺は聞いた。
「関中ではなく?」
「漢中です」
「聞き間違いでは」
「ありません」
「似ているから、書き間違いの可能性は」
「ありません」
蕭何は冷たい。
樊噲が地面を蹴った。
「ふざけてやがる。咸陽に先に入ったのは兄貴だろ」
「そうだ」
俺は頷いた。
「先に入った。だから怒られた。だから山へ行けと言われた。世の中、うまくできている」
「納得するな」
「納得していない。ただ、怒ると項羽が来る」
それは嫌だ。
かなり嫌だ。
張良は黙っていた。
その沈黙が、何かを考えている沈黙だと分かるようになってきた。
「これは褒美ではありません」
張良が言った。
「左遷か」
「はい」
「はっきり言うな」
「必要なので」
左遷。
王になったのに左遷。
すごい話である。
出世したら遠くへ飛ばされた。
役所でもたまにあるが、規模が違う。
「項羽は、あなたを咸陽から遠ざけたいのです」
「分かる。俺も俺を遠ざけたい」
「ですが、殺しませんでした」
張良の声が少し低くなった。
「范増は殺すべきだと見ていたはずです。それでも項羽は殺さなかった」
「俺が弱く見えたからか」
「それもあります」
「他には」
「項羽は、勝った後に細かいものを片づけるのが苦手です」
細かいもの。
俺か。
ひどいが、命があるなら文句は小さく言うべきだ。
兵たちの顔は暗かった。
咸陽に入った。
秦を降した。
帝都の財宝を見た。
そのあとで山奥へ行けと言われる。
そりゃ暗くもなる。
俺は彼らの前に立った。
本当は何も言いたくなかった。
言えば残る。
残れば蕭何が書く。
書かれれば逃げられない。
だが、兵たちの顔が暗すぎた。
暗い顔は飯をまずくする。
「漢中へ行く」
俺は言った。
ざわめきが広がった。
「山だ。遠い。虫も多いだろう。飯も、たぶん咸陽よりまずい」
「沛公」
蕭何が小声で止めようとした。
だが、もう言っていた。
「だが、生きて行く。生きていれば、戻る道くらい誰かが見つける」
言ってから、しまったと思った。
戻る道。
また言ってしまった。
兵たちの顔が変わった。
完全に明るくなったわけではない。
だが、暗さの中に、少しだけ火が入った。
張良が俺を見た。
蕭何も見た。
「今の、記録するなよ」
俺が言うと、蕭何はすでに竹簡を出していた。
「戻る道を見つける、と」
「言ってない」
「言いました」
「生きていれば、誰かが、と言った」
「十分です」
ひどい。
王になった。
山へ飛ばされた。
戻ると言ってしまった。
俺の嘘は、また俺の首に縄をかけた。




