第25話 逃げるが勝ち
俺は逃げた。
堂々と、ではない。
静かに、早く、できるだけ見苦しくなく逃げた。
宴席を抜け、馬に乗り、咸陽へ向かう道とは少し違う道を取る。
夜の風が顔を打った。
生きている。
それだけで、かなりありがたい。
「沛公、背を低く」
曹参が言った。
「もう低い」
「もっとです」
「俺は草か」
「今は草の方が生き残ります」
正しい。
草は項羽に呼ばれない。
後ろで、宴席の灯が遠ざかっていく。
その中に項羽がいる。
あの美しい暴力が、まだ座っている。
俺は振り返らなかった。
見たら、足が止まりそうだったからだ。
恐怖だけではない。
項羽という男は、こちらを見させる。
逃げているのに、見たくなる。
だから見ない。
生き残るためには、見ないことも大事だ。
しばらく走ると、張良が馬を寄せた。
「このまま戻ります」
「樊噲は」
「後で抜けます」
「後でって何だ。あいつを置いてきたのか」
「置いてきたのではありません。時間を稼いでもらっています」
「言い方の問題じゃないか」
俺は少し怒った。
かなり怖かったが、怒りもあった。
樊噲は俺のために入ってきた。
あいつがいなければ、俺の首は今ごろ宴席の飾りになっていたかもしれない。
「戻るか」
俺が言うと、張良がこちらを見た。
冷たい目ではなかった。
少しだけ、驚いた目だった。
「戻れば死にます」
「だろうな」
「それでも言いますか」
「言っただけだ」
本当に戻る勇気があるかは分からない。
たぶん、ない。
でも、言ってしまった。
張良は小さく息を吐いた。
「樊噲殿は、あなたが戻ることを望みません」
「お前、あいつのことをいつから分かるようになった」
「分かります。あの方は、あなたを生かすために入った」
それはそうだ。
強い奴を使い捨てにしたくない。
だが、強い奴に助けられなければ、俺は生きられない。
面倒な話である。
やがて、後ろから馬の音が聞こえた。
樊噲だった。
大きな体を揺らしながら追いついてくる。
生きている。
「兄貴!」
「生きてるか!」
「見りゃ分かるだろ!」
分かる。
だが聞きたかった。
樊噲は笑っていた。
「項羽、すげえ男だな」
「感心するな」
「いや、すげえよ。あれはすげえ」
樊噲の声には、恐怖だけではないものが混じっていた。
あれを見て、ただ怖いだけで済む者は少ない。
「でも、兄貴」
「何だ」
「あいつの下だと、俺はたぶん前で死ぬ」
樊噲は笑ったまま言った。
「兄貴の下だと、怒られながら生きそうだ」
俺は少し黙った。
嬉しいような、ひどいような言葉だった。
咸陽へ戻ると、蕭何が待っていた。
顔が怖い。
かなり怖い。
「宴はいかがでしたか」
「酒の味はしなかった」
「当然です」
「肉は樊噲が食った」
「当然ではありません」
蕭何は俺を上から下まで見た。
怪我がないか見ているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「生きて戻ったなら、よろしい」
「褒めてるのか」
「最低限です」
最低限。
今はそれでいい。
張良は宴の後始末に使者を出した。
項羽へ謝罪の言葉と、咸陽の財宝に手をつけていないことを改めて伝えるためだ。
俺は言った。
「それで許されるか」
「完全には」
「では意味がないのでは」
「今殺されない意味があります」
なるほど。
非常に大事だ。
項羽は勝つのがうまい。
あの男は、勝利を見せるだけで人を従わせる。
俺は違う。
俺は勝てない相手から逃げる。
逃げて、生きて、次の面倒を抱える。
格好悪い。
しかし、生きている。
その夜、俺は眠れなかった。
項羽の顔が浮かぶ。
宴席で、俺を見ていた目。
嘘などどうでもいいとでも言いたげな目。
俺の嘘は、多くの相手を動かしてきた。
だが、項羽には通じないかもしれない。
それでも、俺は生きて帰った。
張良が言った。
「今日は勝ちました」
「逃げただけだ」
「項羽の前から逃げて生きている。それは勝ちです」
そういうものか。
俺には分からない。
ただ、ひとつだけ分かった。
あいつと正面から戦ってはいけない。
絶対に。
それと、もう一つ。
鴻門で項羽を見てから、俺は嘘を吐く前に、その先に誰の首があるのか、少しだけ見るようになった。
少しだけだ。
俺は急に立派にはならない。
だが、丁礼の顔が、一度だけ浮かんだ。




