第24話 樊噲、宴席に乱入する
剣舞が始まった。
宴の席で、剣が光る。
酒の匂いの中に、鉄の匂いが混じる。
俺は杯を持ったまま動けなかった。
剣を持った男が、一歩ずつ近づいてくる。
踊りに見える。
だが、足の向きが俺へ向いている。
これはまずい。
かなりまずい。
普通のまずさではない。
寝坊して上役に怒られるまずさではない。
酒代が足りないまずさでもない。
首が落ちるまずさである。
張良が立ち上がろうとした。
だが、その前に、外が騒がしくなった。
「何者だ!」
項羽の兵の声。
次の瞬間、幕が乱暴に開いた。
樊噲が入ってきた。
肉屋だった男だ。
今は、俺の首が飛ばないようにするための、かなり大きな肉の壁である。
樊噲は盾を持っていた。
目が据わっている。
項羽の兵が槍を向けても、まったく止まらなかった。
「沛公の護衛、樊噲!」
声が宴席に響いた。
俺は思った。
頼むから、もう少し小さな声で入ってきてくれ。
だが、項羽は目を細めた。
怒ったのではない。
興味を持った目だった。
樊噲は項羽の前で膝をついた。
膝をついたが、頭は下げすぎなかった。
こいつは本当に怖いもの知らずである。
俺なら地面に埋まるくらい頭を下げる。
「何をしに来た」
項羽が聞いた。
「沛公が斬られそうだって聞いた」
言うな。
思ったことをそのまま言うな。
宴席の空気が凍った。
范増の目が鋭くなった。
張良は顔色を変えない。
たぶん内側では全力で計算している。
樊噲は続けた。
「沛公は咸陽に入った。だが、蔵の金を抱えて逃げたか。女を奪ったか。秦王の首を取ったか」
誰も答えなかった。
それは、事実だ。
理由はかなり違うが、事実ではある。
「してねえだろ」
樊噲は大きな声で言った。
「それなのに、ここで客を斬ったらどうなる。次の城は門を開けねえ。降ったら殺されるって知れたら、みんな最後まで噛みつく」
荒い。
かなり荒い。
だが、耳には残った。
張良の言葉なら、もっと整っていただろう。
蕭何の言葉なら、もっと正確だっただろう。
でも、樊噲の言葉は、肉を切る包丁みたいに太かった。
樊噲は項羽をまっすぐ見た。
「項羽殿ほどの大将が、そんな小さい勝ち方をするのか」
宴席が、さらに静かになった。
俺は息を止めた。
おい。
今のは、言い方が強すぎる。
強すぎるどころではない。
首がもう一つ増える言い方である。
だが、項羽は怒らなかった。
樊噲を見ていた。
強い獣が、別の強い獣を見つけた時のような目だった。
「面白い男だ」
項羽が言った。
その一言で、樊噲は生き延びた。
たぶん俺も、少し生き延びた。
「酒をやれ」
項羽が命じると、大きな杯が運ばれてきた。
樊噲はそれを受け取り、一息に飲んだ。
そして、肉も食った。
お前、何を普通に食っている。
だが、項羽は笑った。
兵たちも少し笑った。
空気が一瞬だけ緩んだ。
その緩みを、張良が逃さなかった。
張良が俺の袖を軽く引いた。
出るぞ。
そういう意味だ。
俺は立ち上がった。
「少し、席を外します」
声が震えなかっただけ、俺は自分を褒めたい。
項羽は何も言わなかった。
范増の目だけが追ってきた。
宴席の外へ出た瞬間、膝が笑いそうになった。
樊噲はまだ中にいる。
張良は俺の横にいる。
外には馬が用意されていた。
どうやら、最初からこうするつもりだったらしい。
「張良」
「はい」
「お前、俺が逃げるところまで計算していたな」
「逃げる以外に、あなたができることは多くありません」
「ひどいな」
「事実です」
事実はたまに人を傷つける。
宴席の中から、樊噲の声が聞こえた。
まだ何か言っている。
頼むから、余計なことは言わないでくれ。
だが、その声を聞いて、俺は少しだけ息ができた。
強い奴を、ただの棒みたいには使わない。
昔、樊噲はそう言った。
今、その強い奴が、俺の逃げ道を作っている。
俺は馬に乗った。
格好よく勝つのは、項羽の役目だ。
俺の役目は、生きて帰ることだ。




