第23話 最強の男の前で、全力でへりくだる
項羽の前に出た時、俺は初めて思った。
ああ、これは駄目だ。
勝てない。
殴り合いなら当然勝てない。
兵を並べても勝てない。
大声で言い合っても、たぶん勝てない。
項羽は、座っているだけで勝っていた。
若い。
美しい。
強い。
そんな言葉では足りない。
見ていると、こちらの言葉が勝手に小さくなる。
自分が言おうとしていた嘘が、ひどく安っぽく見える。
嫌な男である。
「劉邦か」
項羽が言った。
声は静かだった。
怒鳴られていないのに、首の後ろが冷えた。
「はい」
俺は頭を下げた。
深く。
できるだけ深く。
地面に頭をこすりつけてもいいくらいだった。
格好悪い?
知るか。
死ぬよりはいい。
「先に咸陽へ入ったな」
項羽の声に、周囲の兵が少し動いた。
ここで間違えたら終わる。
俺は言った。
「入らせていただきました」
いただきました。
言い方がひどく弱い。
だが、弱い方がいい。
「咸陽の財宝には手をつけておりません。宮殿も封じました。秦王の命も取りませんでした。すべて、項羽殿を待つためです」
嘘である。
財宝に手をつけなかったのは、蕭何と張良が怖かったからだ。
宮殿を出たのも、追い出されたからだ。
秦王の命を取らなかったのは、取ると後が面倒だったからだ。
だが、今は違う。
全部、項羽を待つためだったことにする。
嘘は、ついた瞬間に形を変える。
聞いた者が信じたがる形に変わる。
問題は、項羽が信じるかどうかだった。
項羽は俺を見た。
まっすぐに。
俺は笑いそうになった。
いや、違う。
笑ってごまかしたくなった。
だが、笑えなかった。
項羽の目は、こちらの嘘を探す目ではない。
嘘などどうでもいい目だった。
この男にとって大事なのは、俺が何を言ったかではない。
俺が、項羽の前でどれだけ小さくなるかだ。
俺はさらに頭を下げた。
「俺は項羽殿と争う気などありません」
これは本当である。
かなり本当である。
争いたくない。
心から争いたくない。
項羽の横で、范増がこちらを見ていた。
あの老人の目は、項羽の目とは違う。
項羽は俺を力で測っている。
范増は俺の逃げ道を数えている。
そちらの方が、ある意味で怖い。
宴が始まった。
酒が注がれた。
肉が出された。
だが、味はしなかった。
項羽の前で飲む酒は、酒ではない。
喉を通る試験である。
「咸陽はどうだった」
項羽が聞いた。
「大きいです」
「それだけか」
「面倒も大きいです」
しまった。
いつもの癖が出た。
張良が横で少しだけ動いた。
たぶん、足を踏みたいのを我慢したのだと思う。
だが項羽は笑った。
短い笑いだった。
周囲の兵が、ほっと息を吐くのが分かった。
「お前は変な男だな」
「よく言われます」
これは本当だ。
だが、范増の顔は緩まなかった。
宴の途中、范増は何度も項羽へ目配せした。
殺せ、という目だ。
俺には分かった。
分かりたくなかったが、分かった。
項羽の剣は抜かれていない。
だが、場にはすでに剣がある。
すると、ひとりの男が立った。
項羽側の武人だ。
剣舞をすると言う。
宴の余興。
そういう顔をしている。
だが張良が息をのんだ。
剣舞。
宴の席で剣を抜く理由。
なるほど。
俺は分かった。
これは、余興ではない。
俺の首を落とすための踊りだ。
俺は杯を持ったまま、手に汗をかいた。
嘘も、軽口も、出てこなかった。
項羽はそれを見ていた。
美しい顔で。
退屈そうに。
そして、俺の生死など、自分の機嫌ひとつで決まるものだという顔で。
この時、俺ははっきり理解した。
項羽は、人を殺す時に怒らない。
たぶん、必要なら静かに殺す。
だから、怖い。




