第22話 鴻門の会
鴻門へ向かう朝、俺は三回ほど腹を下した。
食い物のせいではない。
項羽のせいだ。
「沛公、顔色が悪いです」
張良が言った。
「分かっているなら、代わりに行ってくれ」
「呼ばれているのはあなたです」
「俺の名でお前が行けば、ばれないのでは」
「ばれます」
「なら樊噲」
「体格が違いすぎます」
樊噲が腕を組んで笑った。
「俺が行ったら、最初から戦だな」
「だから嫌なんだよ」
鴻門の会。
そう呼ばれることになる宴へ、俺は向かっていた。
宴と言えば普通は、酒がある。
肉がある。
女がいるかもしれない。
寝る場所もあるかもしれない。
つまり、良い場所である。
だが、今回だけは違う。
酒の横に殺意が置いてある。
肉の向こうに項羽が座っている。
寝る場所は、たぶん土の下だ。
「笑えませんね」
曹参がぼそりと言った。
「お前、俺の心を読むな」
「顔に出ています」
困る。
俺の顔は、たまに俺より正直だ。
出発前、張良は夜のうちに一人の男と会っていた。
項伯。項羽の身内にあたる男で、張良とは昔からの縁があるらしい。
項伯は細い目の男だった。
項羽ほど眩しくはない。
だが、項羽のそばで生きてきた者特有の、焼け跡のような静けさがあった。
「劉邦は項羽と争う気はない」
張良はそう言った。
俺は横で頷いた。
「もちろんない。争いたいと思ったことがない。できれば顔も合わせたくない」
「最後の一言は不要です」
張良が小声で言った。
項伯は俺を見た。
「本当に、関中を奪う気はなかったのか」
関中。咸陽を含む、秦の中心地だ。
ここを持てば強い。
だから欲しい者は多い。
俺は即答しかけて、張良に足を踏まれた。
痛い。
「項羽殿を待つつもりでした」
俺は言った。
嘘である。
待つつもりなどなかった。
先に入ったから、仕方なく整理していただけだ。
だが、こう言うしかない。
項伯はしばらく黙っていた。
そして言った。
「宴で、同じことを言え」
宴で。
項羽の前で。
俺の嘘は、急に重くなった。
張良は俺に言った。
「余計なことは言わないでください」
「俺が余計なことを言う男みたいに言うな」
「言います」
「否定しろ」
「できません」
ひどい。
鴻門に近づくにつれ、空気が硬くなった。
項羽の兵が並んでいる。
若い兵も、古い兵も、目が違う。
彼らは勝った兵だった。
勝った男の背中を見た兵だった。
こちらを見る目に、恐怖だけではないものがある。
誇りだ。
自分たちは項羽の兵だ、という誇り。
正直、嫌だった。
俺の兵たちは、俺を見ると不安そうにする。
項羽の兵は、項羽を見ると背筋が伸びる。
ずるい。
人間としての作りが違う。
宴の席が見えた。
項羽がいた。
遠目でも分かった。
そこだけ、人の視線が集まっている。
座っているだけで、周囲の者が立っているように見える。
俺は軽口を用意していた。
酒の話でも、飯の話でも、責任の話でも、何か言えると思っていた。
だが、項羽を見た瞬間、喉に引っかかった。
嘘は得意だ。
その場しのぎも得意だ。
だが、あの男の前で吐く嘘は、いつもの嘘とは違う。
踏み間違えれば、首が飛ぶ。
張良が小さく言った。
「頭を下げてください」
「今からか」
「今からです」
俺は馬を降りた。
土の匂いがした。
酒の匂いもした。
そして、まだ乾ききらない血の匂いもした。
宴は始まる前から、逃げ場がなかった。




