第21話 項羽、キレる
項羽が咸陽へ向かっている。
その報せを聞いた時、俺はまず腹が痛くなった。
飯の食いすぎではない。
責任の味がした。
咸陽の宮殿を出たばかりの俺たちは、まだ帝都を取った実感すら持てていなかった。
倉の封印、兵の配置、降った役人の扱い、宮殿にいた女たちの行き先。
やることは山ほどある。
なのに、東からもっと大きな面倒が来る。
「なあ、張良」
「はい」
「項羽が来る前に、咸陽を少しだけ別の場所へ動かせないか」
「無理です」
「では俺だけ動くのは」
「逃亡です」
「言い方が悪い。移動だ」
「逃亡です」
冷たい。
だが張良の目は、いつもの冷たさだけではなかった。
どこか急いでいる。
蕭何も同じだった。
文書をまとめる手がいつもより速い。
「項羽は怒っていますか」
蕭何が聞いた。
急報を運んできた男は、口の端を震わせた。
「怒っている、という言葉で足りるかどうか」
「足りない怒りって何だよ」
「項羽様は、秦の主力を砕きました。その間に、沛公が先に咸陽へ入ったと」
沛公。
その呼び名が、急に硬く聞こえた。
項羽から見れば、俺は横から獲物を拾った男だ。
秦の強いところは項羽が砕いた。
俺たちは、砕けた隙間から入った。
事実である。
だから困る。
「説明すれば分かるか」
「何をですか」
「俺は、楽な道を選んだだけだと」
「余計に怒ります」
張良が即答した。
ひどい。
正直に言っても怒られるなら、嘘をつくしかないではないか。
あとで、項羽の本陣にいた兵から聞いた。
生き残ってこちらへ降った男だった。
男は項羽の言葉より、その場の空気ばかり話した。
項羽は咸陽の方角を見ていたらしい。
勝った直後の顔ではない。
まだ次を壊す場所を探している顔だった、と。
鎧には乾いた血が残っていた。
血があっても、砂があっても、顔の線は崩れない。
兵たちは遠巻きに見ていた。
怒りに近づけば焼かれると分かっているのに、それでも見ていた。
美しい火を見るのと同じだ。
近づけば死ぬ。
でも、目を離せない。
その兵は、そこだけ何度も言った。
「声は大きくありませんでした。でも、肩が動いたんです。近くにいた兵の肩が、いっせいに」
項羽が何を言ったか、細かいところは人によって違った。
だが、どの話にも范増の名が出た。
項羽のそばにいる、白髪の軍師だ。
范増は、俺を殺せと言ったらしい。
強いからではない。
弱いからだ、と。
強い者は見える。
弱い者は隙間に入り込む。
劉邦は正面から来ない。
逃げて、生き残る。
誰がどの言葉をそのまま聞いたのかは分からない。
だが、その話を聞いた時、俺は少しだけ腹が冷えた。
項羽本人より、范増の方が俺を正しく見ている気がしたからだ。
そして、どの兵も最後だけは同じように言った。
項羽は笑った。
その笑みで、兵たちの背が伸びた。
怖いのに、見たい。
あの男が笑えば、勝てる気がしてしまう。
それから項羽は、俺を呼ばせた。
宴を開く。
来るなら会う。
来ぬなら討つ。
そうして、俺のもとに使者が来た。
場所は鴻門。
項羽の本陣に近い場所だ。
要するに、敵の腹の中で開かれる宴である。
使者が去ったあと、俺はしばらく黙っていた。
樊噲が言った。
「兄貴、顔が白いぞ」
「そうか」
「逃げるか」
いつもなら、俺はすぐに頷いていたと思う。
だが、今回は頷けなかった。
逃げれば、項羽は咸陽へ来る。
来れば、町が壊れる。
秦とは違うと言った俺の言葉も、咸陽で命は取らないと言った約束も、全部まとめて踏みつぶされる。
俺の嘘は、ついに項羽の前まで来てしまった。
「行くしかないか」
俺が言うと、張良が静かに頷いた。
「はい」
「生きて帰れるか」
「策はあります」
「答えになってない」
「生きて帰るための策です」
蕭何が、竹簡を閉じた。
「沛公」
「その呼び方、今はやめろ。責任が重い」
「重いから呼びます」
嫌な奴である。
俺は東を見た。
嘘なら得意だ。
だが、項羽の前で嘘が通じるかは分からない。
それでも行く。
行かなければ、もっと面倒なことになるからだ。




