第20話 財宝と美女と、蕭何の冷たい目
咸陽の宮殿には、欲しいものが全部あった。
酒。
肉。
絹。
金。
女。
広い寝台。
人が一生かけても使い切れないような部屋。
正直に言う。
めちゃくちゃ住みたかった。
沛県の役所とは比べものにならない。
雨漏りもしなさそうだし、寝台は広いし、酒は良い匂いがする。
責任さえなければ、俺は三日くらい寝ていたと思う。
責任さえなければ、世の中のだいたいの場所は良い場所である。
「少しだけなら」
俺が言うと、張良が首を振った。
「だめです」
「まだ何も言ってない」
「言う前から分かります」
蕭何は宮殿の財宝ではなく、文書庫へ向かっていた。
金銀の山には目もくれない。
人間としてどうなのかと思う。
だが、蕭何としては正しいのだろう。
「蕭何、こっちに金があるぞ」
「後で数えます」
「酒もある」
「後で封じます」
「女もいる」
「外へ出します。ただし、行き先も決めます」
「お前、人生が楽しいか」
「あなたより長く生き残る自信はあります」
それは強い。
宮殿にいた女たちは、俺たちを見ると身を硬くした。
秦の後宮にいた者たちだ。
飾られた部屋の中で、飾りのように扱われてきた者たち。
その中の年長の女が、一歩だけ前へ出た。
震えていたが、逃げなかった。
「外へ出すなら、行き先を決めてください。門の外へ投げられても、私たちは生きられません」
俺は軽口を言いかけて、やめた。
怖がっている人間が、それでも条件を出す時がある。
そういう時に冗談を言うと、飯がまずくなる。
「手を出すな」
俺は兵たちに言った。
兵たちは黙った。
何人かは不満そうだった。
俺も不満だった。
かなり不満だった。
だが、ここで手を出せば、沛県で言った言葉も、咸陽の門で言った言葉も、全部腐る。
秦とは違う。
命は取らない。
泣く順番くらいは俺が決める。
どれも、言った時はその場しのぎだった。
だが、言った以上、蕭何が逃がさない。
張良が利用する。
曹参が見ている。
樊噲が、たぶん後で笑う。
俺の嘘は、だんだん俺の縄になっていた。
「宮殿を出ましょう」
張良が言った。
「今すぐか」
「今すぐです」
「飯だけでも」
「外で食べます」
「酒は」
「外で」
「寝台は」
「外に敷物があります」
ひどい。
帝都を取った男への扱いではない。
俺は最後に、広い寝台を見た。
本当に広かった。
大人が五人寝ても余りそうだった。
俺なら一人で使う。
端から端まで転がる。
酒を置く場所もある。
最高である。
俺は歯を食いしばって、背を向けた。
宮殿の外へ出ると、兵たちが俺を見た。
咸陽の民も見ていた。
秦の役人たちも見ていた。
俺はただ、蕭何と張良に追い出されただけだ。
だが、外からはそう見えないらしい。
張良が小さく言った。
「欲に溺れなかった男に見えます」
「見えるだけか」
「見えることが大事です」
嫌なことを言う。
民の何人かが、俺を見て頭を下げた。
俺は言い訳を飲み込んだ。
今は、その見え方を使うしかない。
その日の夕方、東から急報が届いた。
項羽が来る。
秦の主力を砕いた男。
勝てば従うと思っている男。
正面にあるものを壊して進む男。
その男が、咸陽へ向かっている。
俺は宮殿を振り返った。
財宝も、酒も、寝台も、まだそこにある。
だが、それどころではなくなった。
「なあ、張良」
「はい」
「俺、あいつに会いたくない」
「会うことになります」
知っていた。
聞いただけだ。
俺は東を見た。
これまで俺の嘘は、周りの連中が少しずつ本当にしてくれた。
だが、項羽という化け物の前で、それが通じるのか。
その答えは、まだ誰も知らなかった。




