第19話 帝都・咸陽
咸陽が近づくと、空気が変わった。
道が広い。
倉が大きい。
人の数が多い。
そして、誰もがこちらを見ている。
田舎町の沛県とは違う。
ここは秦の帝都だ。
この大陸を法と兵で縛ってきた国の中心である。
正直、俺は帰りたかった。
近づくだけで面倒が大きいと分かる場所には、近づかない方がいい。
豚の喧嘩でも、火のついた倉でも、帝都でも同じだ。
だが、ここまで来てしまった。
項羽が秦の主力を正面から砕いている間に、俺たちは別の道から進んだ。
降る城を受け入れ、逃げる兵を数え、飯を分け、嘘を少しずつ現実に変えながら進んだ。
そして、咸陽の前に立っている。
「本当に入るのか」
俺が言うと、樊噲が呆れた顔をした。
「ここまで来て何言ってる」
「門の前まで来たら満足、ということにできないか」
「できるか」
蕭何が言った。
「できません」
知っていた。
聞いただけだ。
咸陽の城門は、思ったより静かだった。
秦の兵がぎっしり並び、矢が降ってくると思っていた。
だが、門の上の兵たちは疲れていた。
戦う前から、目の下に影がある。
帝国の中心も、内側から崩れ始めていた。
張良が低く言った。
「無理に攻めない方がよいでしょう」
「攻めたくない」
「なら、よろしい」
「今のは策か」
「あなたの臆病が、たまに策と同じ向きを向きます」
「褒め方が下手だな」
使者を出した。
降れば、命は取らない。
この言葉はもう、何度も使っている。
言うたびに重くなる。
言うたびに、破れなくなる。
城門の内側で、長い時間が流れた。
やがて、門が開いた。
秦の王が出てきた。
若かった。
疲れていた。
帝国の王というより、重すぎる衣を着せられた人間に見えた。
彼は玉の印を差し出した。
璽だ。
王のしるしであり、秦がこの大陸を支配してきた証でもある。
俺はそれを見た。
正直、持ちたくなかった。
見ただけで重い。
手に取ったら、たぶんもっと重い。
だが、周りが見ている。
秦の者も、こちらの兵も、降った者も、張良も、蕭何も見ている。
逃げられない。
俺は璽を受け取った。
思ったより、冷たかった。
秦王は言った。
「命は」
声がかすれていた。
俺は言った。
「取らない」
一度、使者に言った言葉だ。
今度は本人に言った。
ついていい嘘と、ついたら面倒な嘘がある。
これは後者だ。
面倒だから、守る。
秦王の肩が少し落ちた。
周囲の兵たちも、息を吐いた。
咸陽は落ちた。
戦って落としたのではない。
壊して奪ったのでもない。
開いた門を通って、受け取ってしまった。
俺は璽を持ったまま、咸陽の奥を見た。
まだ宮殿は遠い。
だが、そこにあるものの気配だけで分かった。
金。
酒。
広い寝台。
たぶん、俺が見たこともないような女たち。
ろくでもないものが、山ほど待っている。
俺は思った。
次の問題は、秦王ではない。
俺の欲である。




