第28話 桟道を焼く
漢中へ入る道には、木で組まれた細い道があった。
崖に張りつくような道だ。
下を見ると足がすくむ。
見なければいいのだが、人間はなぜか見てしまう。
桟道というらしい。
山に作った木の道である。
便利だ。
怖いが、便利だ。
そして、その便利な道を焼くと言われた。
「何でだ」
俺は聞いた。
「外から、こちらへ戻る道を断つためです」
蕭何が言った。
「戻れなくなるだろ」
「そう見せるためです」
「見せるだけか」
「見せるだけです」
「本当に戻れなくなったら」
「別の道を探します」
簡単に言う。
別の道というものは、探せば必ずあるものなのか。
俺の昼寝の時間は探しても戻ってこないのに。
張良が言った。
「項羽に、劉邦はもう外へ出る気がないと思わせます」
「俺は元から外へ出たくない」
「その本音は、今回は役に立ちます」
「珍しいな」
使える本音もあるらしい。
兵たちはざわついた。
桟道を焼く。
それは、外の世界との道を自分たちで断つことだ。
咸陽へ戻る道。
関中へ戻る道。
家へ戻る道。
燃やせば、兵の心も燃える。
違う方向に。
「本当に焼くのか」
曹参が聞いた。
曹参は慎重だ。
足の運びを見る男は、道にも慎重になる。
「焼く」
蕭何が答えた。
「全部か」
「見えるところは」
俺は蕭何を見た。
「見えるところは、という言い方が嫌だな」
「見えないところは残します」
「嘘じゃないか」
「見せ方です」
こいつ、俺より嘘がうまいのではないか。
樊噲はたいまつを持っていた。
嬉しそうだ。
「燃やしていいのか」
「お前は燃やす時だけ子どもみたいな顔をするな」
「燃えるものは燃やした方が分かりやすい」
「分かりやすさで天下を取るな」
桟道に火がついた。
最初は小さな火だった。
木の端が赤くなり、煙が上がる。
それから一気に広がった。
乾いた木が鳴る。
火が山肌を照らす。
兵たちは黙って見ていた。
燃えているのは道だ。
だが、燃えているのはそれだけではない。
咸陽へ戻る気持ち。
逃げて帰る道。
項羽に見つかる前にどこかへ消える夢。
そういうものも、少しずつ煙になっていくようだった。
俺は小声で言った。
「これで、俺たちは漢中に閉じ込められたように見える」
「見えます」
張良が答えた。
「実際は」
「閉じ込められています」
「そこは嘘をつけ」
「嘘をついても道は増えません」
正しい。
嫌な正しさだ。
火を見ていた兵の一人が言った。
「戻れないんですか」
若い声だった。
不安が混じっている。
俺は少し黙った。
本当は、分からない。
戻れるかどうかなど、誰にも分からない。
だが、兵の目がこちらを見ている。
蕭何も見ている。
張良も見ている。
言えば残る。
残れば縛られる。
でも、言わなければ足が止まる。
「戻る」
言う前に、俺は兵たちの顔を見た。
丁礼の顔が、また少し浮かんだ。
この言葉を聞けば、誰かが歩く。
誰かが道を探す。
誰かが、その途中で死ぬかもしれない。
それでも、言わなければ足が止まる。
「戻る」
俺は、もう一度言った。
火の音が大きくなった。
「今日は道を焼く。明日は飯を食う。その次は道を探す。順番だ」
若い兵は、少しだけ頷いた。
嘘かもしれない。
いや、かなり嘘に近い。
だが、蕭何がもう何かを書き始めていた。
「今のも書くのか」
「はい」
「やめろ」
「戻る道を探す、と」
「順番だと言っただけだ」
「十分です」
俺の言葉は、すぐ仕事になる。
ひどい仕組みである。
桟道は夜まで燃えた。
山の闇の中で、火だけが明るかった。
項羽の炎とは違う。
あの男の火は、人を前へ走らせる。
俺たちの火は、後ろの道を焼いた。
進むしかないように見せるために。
そして、進むしかなくなるために。




