第15話 帝都への競争が始まった
咸陽を目指すと決めた翌朝、俺は敷物から出たくなかった。
外には兵がいる。
兵がいるということは、飯がいる。
飯がいるということは、蕭何がいる。
蕭何がいるということは、俺が昨日言ったことを覚えている。
最悪の流れだ。
「起きてください」
案の定、蕭何の声がした。
「病だ」
「どこがです」
「責任が重い」
「病ではありません」
「治るか」
「進めば少しは」
「進むと悪化しないか」
「逃げても悪化します」
逃げ道がない。
医者より怖い。
外に出ると、兵たちが集まっていた。
沛県の者、山から来た者、逃亡者、元秦兵、飯につられて残った者。
きれいな軍ではない。
槍の長さも違う。
靴も揃っていない。
昨日まで畑を耕していたような顔の男もいる。
それでも、皆が俺を見る。
やめろ。
道は蕭何に聞け。
敵が来たら樊噲に聞け。
怖くなったら曹参に後ろを見てもらえ。
そう言いたかったが、言う前に樊噲が声を張った。
「沛公が出るぞ!」
出るぞ、ではない。
出されるのだ。
だが、兵たちは少し沸いた。
それを見て、俺は口を閉じた。
進軍は、思ったより地味だった。
旗がなびき、太鼓が鳴り、皆が勇ましく歩くものだと思っていた。
実際には、荷車が泥にはまり、飯を炊く場所で揉め、腹を壊す者が出て、誰かが靴をなくす。
咸陽への道は、英雄の道というより、面倒の長い列だった。
途中の村で、老人が俺たちを見て戸を閉めた。
「歓迎されてないな」
俺が言うと、曹参が答えた。
「武器を持った集団ですから」
「俺たちは秦とは違う」
口にしてから、少し嫌になった。
その言葉は、沛県でも言った。
言った以上、違わなければならない。
違わなければ、俺はただの嘘つきになる。
まあ、嘘つきではある。
問題は、信じられた後の嘘だ。
道の先から、商人の一団が来た。
荷車は半分空で、馬は疲れている。
荷の上には割れた壺と、焦げた布が積まれていた。
「東へは行かないのか」
俺が聞くと、商人は首を振った。
「東は項羽様の軍が通ります」
「様がつくのか」
「つけた方が、命が長い気がします」
嫌な理由だ。
商人は怯えていた。
だが、項羽様と言う時だけ、声が少し上ずった。
怖いものを見た声ではある。
けれど、それだけではなかった。
怖いものを見て、生き残ったことを、誰かに話したくて仕方がない声だった。
「見たのか」
俺が聞くと、商人はこくこくと頷いた。
「遠くからです。旗だけです。けれど、秦の兵が旗を見て、列を乱しました」
「旗だけでか」
「旗の下に、あの方がいると分かったので」
あの方。
商人がまた妙な言い方をした。
秦の兵に荷を奪われ、戦場から逃げてきた顔をしているくせに、項羽のことを語る時だけ、少し誇らしげだった。
とんでもない災害を見て生き残った者が、その災害の大きさを自慢するような顔だ。
「項羽様は秦の主力を叩くそうです。正面から」
正面から。
その言葉だけで、兵たちの顔が少し変わった。
俺たちは別の道を行く。
正面の堅い敵は、項羽が壊す。
ずるい。
実にずるい。
だが、合理的でもある。
その時、後ろで荷が落ちる音がした。
降ったばかりの元秦兵が一人、荷を放り出していた。
顔が白い。
逃げる顔だ。
「おい」
樊噲が腕を伸ばす前に、俺は言った。
「逃げるなら、飯を食ってから逃げろ」
元秦兵が足を止めた。
樊噲も止まった。
蕭何だけが眉を動かした。
「逃がすのですか」
「腹が減ったまま逃げると、途中で倒れる。倒れると、また誰かが拾う。面倒だ」
「本音ですか」
「本音だ」
元秦兵は、泣きそうな顔で俺を見た。
「項羽が来たら、殺されます」
「俺も会いたくない」
兵たちがこちらを見た。
しまった。
ここは大丈夫だと言う場面だった気がする。
俺は咳払いした。
「だが、項羽は正面へ行く。俺たちは横へ行く。向こうが壁を壊している間に、こっちは隙間を通る。だから今日は死なない」
今日は。
明日は知らない。
だが、元秦兵は荷を拾った。
周りの兵たちも、少しだけ息を吐いた。
また、言ってしまった。
「俺たちは、空いた道を行く」
俺は改めて言った。
誰かが頷いた。
蕭何は書き留めなかった。
「書かないのか」
「今の言葉は、皆が歩きながら覚えます」
「それが一番困る」
また残った。
咸陽への競争は始まっていた。
項羽は秦の主力を正面から砕く。
俺たちは、その横を抜ける。
同じ秦を倒す戦なのに、進み方はまるで違った。
項羽は壁を壊す。
俺たちは、壁が壊れた後の隙間を探す。
どちらが格好いいかは、聞くまでもない。
どちらが長生きしそうかは、まだ分からない。




