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「歩調が合っている」

 カーがそう言って、くっと喉を鳴らして笑った。

 砂漠は暑かった。真っ赤な空の下、ニコはそれでも、足もとを取られることなしにユーディを負ぶって歩いた。城はもうすぐだと、砂漠を見回って地理に強いグレーテがニコを励ました。

 いつでも代われるようにその後ろをついて歩く僕と、カーの歩調のことを、彼は言っているのだ。

「姿が同じなのだから、歩調も同じでしょう」

「そうだな、同じ姿だ」

 歩きながら、カーは赤い空を仰ぎ、呟いた。

「なぜ同じ姿なのだろうな」

 それは、ある答えを仄めかされたのだと僕は気付いた。

 それは、元は、青い空の下では、僕らは同じ姿ではなかったという答えだ。

 僕は記憶を辿る。けれど、僕が思い出せるのは自分の視界ばかりで、自分の顔をはっきりと覚えていない。この姿は、僕の姿ではないのだろうか。今の僕は、他人の姿なのだろうか。それとも、カーが今の姿ではなかったのだろうか。

 城が見えてきた。僕は考えを巡らすのを止める。今は、ユーディの体が心配だ。

 ニコは結局、一人でユーディを担いで砂漠を乗り切った。城の泉のほとりで彼女を降ろすニコの肩を、僕は軽く叩く。

「儀式中は、決して中を覗くな」

 今度はカーがユーディの体を抱える。カーは短く、しかし鋭く釘を刺して、幕屋の中へ入っていった。

「儀式って、泉でやるんじゃないんだ」

 僕は何気なく呟いた。ああ、とニコが応える。

「俺、前に儀式を受けたことがあるはずなんだが……どうも思い出せないんだよなぁ」

 僕らは泉でそれぞれ水を汲んだ。

 水面に顔を映してみる。黒い髪のこの姿、馴染んではきたが、これが以前の、青い空の下でもこうだったのか、僕は覚えていない。

 もしこの姿が、カーの姿だったのなら。

 だって、僕には、あの白昼夢で見た、カーの記憶があるのだ。

 僕は自分が自分でない感覚に囚われる。頬に触れる。何だろうかとグレーテが覗く。

「ねえ、グレーテ」

 なあに。グレーテが小首を傾ぐ。

「きみは、この赤い空の下に来る前の記憶、覚えてないの」

 グレーテは首を反対に傾ぐ。

「覚えてないわ、そんなの、ないもの」

「あるんだよ」

 僕は初めて言い募る。

「じゃあ、あなたは覚えているっていうの」

「覚えている。少し……いや、ほとんど、覚えていないに等しいけれど。でも、きみが死んだ時のことも、覚えてる」

「私が死んだっていうの。じゃ、ここは、天国か何か? 死んだ後に来る世界だっていうの?」

「いや」

 こんな天国、あっては堪らない。僕はかぶりを振る。

「面白そうな話だな。じゃお前さん、俺の死んだ時のことは覚えてるっていうのかい」

「ニコは僕と一緒に死んだよ」

「何で俺がお前さんと心中しなきゃならんのよ」

 その言いように思わず吹き出した時、短い悲鳴が、背後の幕屋から上がった。ユーディの声だ。

「何だろう」

 僕らは立ち上がって幕屋の方を向く。その途端、吊り下げた白い幕の隙間から、黒い黒いトラウマの塊が、羽音のような呻りとともに飛び出した。

「うわっ」

「何だこれ。儀式は」

 僕らは腕を振りかざして身を庇い、トラウマが飛び去るのを待った。トラウマは会堂の中を旋回した後、城を飛び出して空に拡散して消えた。

 幕屋の隙間からは、未だに数条のトラウマが漏れ出ている。

「儀式が失敗したのかも」

 僕らは三人で眼差しを交わす。見るなと言われているが、儀式が中断されたのなら、それどころではない。

 僕が先頭に立って、ニコがその背後から覗き、グレーテは宙に浮いて。僕は幕をそっと開いた。

 見えたのは、カーがユーディを抱きすくめる光景。カーは、その首もとに顔を埋めている。

 ひたすらに彼女の首を貪っていたその目が、きろと翻ってこちらを向く。

「見たな」

 声を上げる前に、カーがユーディの体を手放した。

 その体が、黒い煙に変わった。

 今度こそ僕らは悲鳴を上げた。大量のトラウマが宙を舞い、ユーディは、彼女の体は、トラウマの元は、カーの手元から忽然と消えてしまった。

 その体の全てが、トラウマに変わったのだ。

 ニコが頭を抱えて叫んだ。そして、カーの手元、ユーディの体があった所へ走り寄る。

「待て、ニコ!」

 僕は喚いた。ニコだって、ちゃんとカーの姿を見ていれば、その足を止めたろう。

 カーの口もとは、血で深紅に染まっていた。あまつさえ、その血が糸を引いて垂れる。

 ニコはユーディしか、もとユーディであったものしか見ていなかった。目でトラウマを追って、カーの手を見て、ああと嘆く。

 その、自分より丈の高いニコの目に、カーはその手をさらりと当てた。それだけで、ニコは目を閉じ、膝をついてその場に頽れた。

「愚かな」

 見るなと言ったのに。カーが赤い口を横に引いて嘲う。

 カーはニコの左手を取り、傷のあるその手のひらを大きく押し開いて、傷口に滲んだ血を舐めた。

 それから、口もとの赤を拭い、踊るかのように右手を宙に泳がせる。その挙動だけで、ニコの体からトラウマが湧き立ち、その体を埋め尽くし、蝕み、体と置き換わって宙へ飛んでいく。

 その様をカーが満足げに見下ろす。

 僕と同じ姿のカーが執り行う、殺戮にも似た儀式。僕は、それを僕が行っているかのような錯覚に陥る。

 そして、カーは僕を見た。

 視線が音を立てて交わる。僕は稲光に貫かれたように背を震わし、それを合図に身を翻した。逃げなければ。グレーテの手を取って。

 しかし、目前を濃密なトラウマの黒霧に遮られて、僕は一瞬足を止めた。手の先にも、グレーテの半透明の感触はやって来ない。その隙に、カーは数歩の間を素早く歩み寄り、僕を後ろから抱き寄せ、その背中の匂いを嗅ぎ、そして、腕に力を込めて羽交い締めにした。

「抵抗するな。再生の儀式と言ったろう。すぐ、生まれ変わらせてやる。新しい記憶とともに」

「あんな姿を見せられて、信じられる訳がないでしょう」

 カーは羽交い締めする腕の力を保ったまま、自分のものと同じ高さにある僕の首筋を舌で湿して、犬歯を立てた。

 痛い!

 痛みは、極めて薄く、切っ先鋭く、温度は熱く、背筋は冷たい。

 流れ出た血をカーが啜る。その鈍い痛みまでが加わる。

 そして白昼夢。青い空の下で、無茶苦茶に戦っていたときの記憶が現実と混じる。いや、現実はどっちだ。辛うじて取り出した現実のビジョンを、今見ている夢に振りまいているのではないのか。それともやはり、こちらが現実で、あの青い空は、もはや死した者が見る夢なのか。

 白と赤の明滅の中で、グレーテの悲鳴が聞こえた。嫌、みんな、死んじゃう。視野の混濁の中にも、彼女が肩を震わせて嘆き叫んでいるのが、ぼんやりと見えた。

 血を啜ったカーが僕を手放し、右手を掲げてひらりと振った。僕の胸から、射貫かれて血が噴き出すように、トラウマの黒煙が迸る。

「……? 妙だな」

 だが、その迸りは、ユーディやニコのように一挙に体全体には広まらなかった。勢いも弱まり、胸から黒煙が溢れ出す、という程度にまで勢いが減った。それでも、この出血のような黒煙が止まらない。

「そうか……ツァラ、お前はきっと、元の肉体の性質を多く残しているのだね。力が強いというのも、そのためだろう」

 カーは僕とグレーテとを見比べた。

「幽霊になった身とはちょうど真逆だな。グレーテは肉体を半分失ってこの世界へやって来た」

 カーのお喋りと鋭い痛みは僕に冷静さを与えてくれた。そして考えていたのが、退路について。

 今ここで幕屋を去り、村まで走れば、僕の速度にカーは追いつけないだろう。だが、それで? いくら僕でも、休まずに走ることなどできない。休んだところで、カーは追いついてくる。何せ、この島より遠いところなど、この世界にはないのだから。延々と追いかけっこを繰り広げるばかりだ。ならば、魚人の村へ……いや、カーはこれ幸いと魚人を殲滅しにかかるかもしれない。あるいはトラウマを蔓延させに行くかもしれない、どうやら彼にはそれができそうなのだから。

 外に可能性はない。なら、内は。

 たゆたう黒煙に視界が危ういが、いつものカーの寝椅子の下、その床に設えられた木の扉が開いていた。

 あの下の螺旋階段。その下に何があるか、大方の予想はついていた。それだけでなく、あの階段の狭さなら、カーがトラウマを呼び起こす挙動をする前に組み勝つかもしれない。最後尾で泉を守っていた一族の主と、最前線で一族を守っていた尖兵が、力だけで戦うなら勝負は見えている。

「グレーテ!」

 僕が呼ぶと、彼女はすぐさま僕の側まで飛んできた。いい反応だ。

 僕は初歩のファイティングポーズでカーを牽制する。ほう、とカーが頤を上げた。面白そうにしているが、嘲っているのだ。

「崩そうというのか。この、私の、王国を?」

 案の定、カーは再度右手を掲げた。僕の胸から再びトラウマが溢れ出す。

 その一瞬で、僕はグレーテを抱いて身を翻し、床の扉に飛び込んだ。

 そして走る。一気に駆け降りる!

 階段は狭く、勾配も厳しかったが、僕は何段も何段もいっぺんに飛び越えて階段を降りた。遂には、手すりに腰をかけて滑って降りた。とはいえ、これは尻がすぐに熱くなってしまったが。

「ねえ、ツァラ」

「ん」

 階段はまだまだ続く。上空から、カーの足音が響いてきている。

「ツァラ、死んじゃうの? 二人は、死んじゃったの?」

 グレーテは怯えていた。

「再生の儀式をすれば体は元には戻るんだろう、きっと。記憶はなくなるみたいだけれどね」

「じゃあ、また私のこと、忘れてしまうの」

 アニミストたちは殊更記憶力が悪かった。それは、アニミストたちの性質そのものと言うよりは、何度も生まれ直したために、村に記憶や歴史の蓄積がなかったからなのだ。

「けど、僕は死ぬかもしれないな」

「そんな」

「カーが言ってたろ。僕は、昔の体の性質を強く残しているって。……トラウマでできているアニミストとは、再生の仕方が違って当然だから」

 そう、アニミストたちは、トラウマに罹るのではない。トラウマで、できているのだ。

 トラウマに真水をかけて治すのは、溢れ出して来るトラウマを、何とか人間の外形の中に押し込めているのだ。希望のような真水を使って。

「僕の、トラウマでできている部分は再生されるかもしれない。けれど、肉体でできている部分は……。もしかすると、きみみたいに、半人前になるのかもしれないね」

 グレーテがまなじりを決した。

「カーは、守るべきものを、傷つけているわ」

「そうかもしれないね……?」

 グレーテは、頭上をきりりと睨むと、僕を見て、ちょっとだけ笑って言った。

「アニミストを傷つけることなんて、私には、簡単なのよ」

 グレーテは僕の手を離れて宙に浮いた。その輪郭が大きく膨張している。粒子の密度を下げて、拡散しているのだ。消えてしまう、吸い込まれる、と言っていた濃度まで。

 そしてそのまま、彼女は上空へと飛んでいった。

 何十段も上の辺りで、カーの足音が止まった。僅かな口論の後、空気を震わす音、カーが喉を詰める音が聞こえた。

 カーが絶叫する。

 アニミストは、他の者の血からなるものを食べられない。それをすると、死んでしまうと言われている。他の者の肉体なら、なおさら。どんなに、その密度が疎であっても。

 階段がようやく途切れ、足が地下の土を踏んだ。しっとりとした土。砂ばかりの地上では、どこにもなかった土だ。

 地下は大きな洞穴になっていた。数歩先は暗闇で見えないが、なぜか手もと足もとははっきりと見え、色までも判別できた。

 僕の足もとには、小さく浅い泉があった。儚い音を立てて、水が地下から噴き出している。

 水源。

 この水源の水が地上へ浸みだして、城の泉となっているのだ。

 そして、水源には、男が一人、半身を真水に浸して体を横たえていた。

 僕は近付いてその顔を確かめる。鳶色の髪、広い額、細い顎。閉じていても鋭いと分かる目もと。

僅かに砂を散らしたその頬と唇には、血の気がなく、男は死んでいるように見えた。胸もとまで視線を下ろすと、胸には弾痕が穿たれ、黒々と生血が流れ出ている。それが泉に流れこみ、真水と混じり合っていた。

 と、男を検分していた僕の頭上に、ひらりひらりと紙が舞い落ちるように、グレーテの薄い体が上空から降ってきた。僕は手を差し出して受け止める。

 その胸に、大穴が空いていた。

 グレーテの名を呼ぶ。グレーテは薄目を開けて、弱々しく笑った。

「お灸を据えて来ちゃった」

 そう言うと、彼女は短く呻いた。その輪郭がさらさらと崩壊していく。

「ツァラ、あなたは、無事でいて。私のこと、忘れないでね」

 グレーテは僕の頬に手を添えて、そして、その身を宙に蕩かした。身をなす粒子が舞って、形をなくし、色をなくし、そして、消えていく。

 じり、と、背後で土を踏む音がした。

 カーが階段を降り、地下まで辿り着いていた。

 一度は拭ったはずのその口もとが、また赤く染まっている。そして血が、糸を引いて落ちる。

 カーは咽せた。血の塊を吐いた。

 暗闇の中で生血は黒々と光った。もはや、血なのか、トラウマなのか、判別がつかない。

 カーは転びつつ水源に近寄り、足跡とともに血の、あるいはトラウマの跡をつけながら、最後はほとんど這いずるようにして、その水際に辿り着いた。

 そして、その右手の傷を押し開き、真水に浸す。

 泉はカーの血を受け入れると、水面が脈動のように一度波打ち、その波が泉全体に広がった。そして、水面が泡立つ。闇のためなのか、トラウマのためなのか、漆黒のその泡が形を取り、続いて色を持ち、服を備えた一組の男女を作り出した。

 カーはそれを確かめると、力尽きて泉の前に頽れた。仰向きの上半身が泉に浸かる。ちょうど、先に倒れていた男の体のように。

 僕はカーに近付いた。カーは血と水とトラウマと、いずれにも顔を汚していた。

「グレーテの再生ができない」

 嗄れた声で呟く。

「グレーテは、トラウマでできてはいなかったのだな」

「あの軽い身だから」

「いいや、彼女は、恐らく、私が、あんなふうにしてしまったのだ……」

 カーはちらと首を傾ける。その先には、ずっと倒れたままの男の、死にゆく体がある。

「あれが、私だ」

 カーは仰向いて僕を見る。

「そして、これは、私が見ている夢」


 これが全て、夢であったなら。

 今見ているものが、夢であったなら。

 あるいは、皆に夢で会えるなら。


 僕は記憶を反芻する。

 カーは絶望していた。世界に、たった一人であることに。

 自分が最後の一人であることに。


 最後の一人が夢を見る時、それが夢か、現実かを判別できる者はいない。

 だから、最後の人は夢を見た。誰も死んでなどいない夢を。誰も死になどしない夢を。

 それを、現実ではないと言う者は、もう誰もいない。

 夢はそのまま、見る者にとっての現実となる。


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