29
「歩調が合っている」
カーがそう言って、くっと喉を鳴らして笑った。
砂漠は暑かった。真っ赤な空の下、ニコはそれでも、足もとを取られることなしにユーディを負ぶって歩いた。城はもうすぐだと、砂漠を見回って地理に強いグレーテがニコを励ました。
いつでも代われるようにその後ろをついて歩く僕と、カーの歩調のことを、彼は言っているのだ。
「姿が同じなのだから、歩調も同じでしょう」
「そうだな、同じ姿だ」
歩きながら、カーは赤い空を仰ぎ、呟いた。
「なぜ同じ姿なのだろうな」
それは、ある答えを仄めかされたのだと僕は気付いた。
それは、元は、青い空の下では、僕らは同じ姿ではなかったという答えだ。
僕は記憶を辿る。けれど、僕が思い出せるのは自分の視界ばかりで、自分の顔をはっきりと覚えていない。この姿は、僕の姿ではないのだろうか。今の僕は、他人の姿なのだろうか。それとも、カーが今の姿ではなかったのだろうか。
城が見えてきた。僕は考えを巡らすのを止める。今は、ユーディの体が心配だ。
ニコは結局、一人でユーディを担いで砂漠を乗り切った。城の泉のほとりで彼女を降ろすニコの肩を、僕は軽く叩く。
「儀式中は、決して中を覗くな」
今度はカーがユーディの体を抱える。カーは短く、しかし鋭く釘を刺して、幕屋の中へ入っていった。
「儀式って、泉でやるんじゃないんだ」
僕は何気なく呟いた。ああ、とニコが応える。
「俺、前に儀式を受けたことがあるはずなんだが……どうも思い出せないんだよなぁ」
僕らは泉でそれぞれ水を汲んだ。
水面に顔を映してみる。黒い髪のこの姿、馴染んではきたが、これが以前の、青い空の下でもこうだったのか、僕は覚えていない。
もしこの姿が、カーの姿だったのなら。
だって、僕には、あの白昼夢で見た、カーの記憶があるのだ。
僕は自分が自分でない感覚に囚われる。頬に触れる。何だろうかとグレーテが覗く。
「ねえ、グレーテ」
なあに。グレーテが小首を傾ぐ。
「きみは、この赤い空の下に来る前の記憶、覚えてないの」
グレーテは首を反対に傾ぐ。
「覚えてないわ、そんなの、ないもの」
「あるんだよ」
僕は初めて言い募る。
「じゃあ、あなたは覚えているっていうの」
「覚えている。少し……いや、ほとんど、覚えていないに等しいけれど。でも、きみが死んだ時のことも、覚えてる」
「私が死んだっていうの。じゃ、ここは、天国か何か? 死んだ後に来る世界だっていうの?」
「いや」
こんな天国、あっては堪らない。僕はかぶりを振る。
「面白そうな話だな。じゃお前さん、俺の死んだ時のことは覚えてるっていうのかい」
「ニコは僕と一緒に死んだよ」
「何で俺がお前さんと心中しなきゃならんのよ」
その言いように思わず吹き出した時、短い悲鳴が、背後の幕屋から上がった。ユーディの声だ。
「何だろう」
僕らは立ち上がって幕屋の方を向く。その途端、吊り下げた白い幕の隙間から、黒い黒いトラウマの塊が、羽音のような呻りとともに飛び出した。
「うわっ」
「何だこれ。儀式は」
僕らは腕を振りかざして身を庇い、トラウマが飛び去るのを待った。トラウマは会堂の中を旋回した後、城を飛び出して空に拡散して消えた。
幕屋の隙間からは、未だに数条のトラウマが漏れ出ている。
「儀式が失敗したのかも」
僕らは三人で眼差しを交わす。見るなと言われているが、儀式が中断されたのなら、それどころではない。
僕が先頭に立って、ニコがその背後から覗き、グレーテは宙に浮いて。僕は幕をそっと開いた。
見えたのは、カーがユーディを抱きすくめる光景。カーは、その首もとに顔を埋めている。
ひたすらに彼女の首を貪っていたその目が、きろと翻ってこちらを向く。
「見たな」
声を上げる前に、カーがユーディの体を手放した。
その体が、黒い煙に変わった。
今度こそ僕らは悲鳴を上げた。大量のトラウマが宙を舞い、ユーディは、彼女の体は、トラウマの元は、カーの手元から忽然と消えてしまった。
その体の全てが、トラウマに変わったのだ。
ニコが頭を抱えて叫んだ。そして、カーの手元、ユーディの体があった所へ走り寄る。
「待て、ニコ!」
僕は喚いた。ニコだって、ちゃんとカーの姿を見ていれば、その足を止めたろう。
カーの口もとは、血で深紅に染まっていた。あまつさえ、その血が糸を引いて垂れる。
ニコはユーディしか、もとユーディであったものしか見ていなかった。目でトラウマを追って、カーの手を見て、ああと嘆く。
その、自分より丈の高いニコの目に、カーはその手をさらりと当てた。それだけで、ニコは目を閉じ、膝をついてその場に頽れた。
「愚かな」
見るなと言ったのに。カーが赤い口を横に引いて嘲う。
カーはニコの左手を取り、傷のあるその手のひらを大きく押し開いて、傷口に滲んだ血を舐めた。
それから、口もとの赤を拭い、踊るかのように右手を宙に泳がせる。その挙動だけで、ニコの体からトラウマが湧き立ち、その体を埋め尽くし、蝕み、体と置き換わって宙へ飛んでいく。
その様をカーが満足げに見下ろす。
僕と同じ姿のカーが執り行う、殺戮にも似た儀式。僕は、それを僕が行っているかのような錯覚に陥る。
そして、カーは僕を見た。
視線が音を立てて交わる。僕は稲光に貫かれたように背を震わし、それを合図に身を翻した。逃げなければ。グレーテの手を取って。
しかし、目前を濃密なトラウマの黒霧に遮られて、僕は一瞬足を止めた。手の先にも、グレーテの半透明の感触はやって来ない。その隙に、カーは数歩の間を素早く歩み寄り、僕を後ろから抱き寄せ、その背中の匂いを嗅ぎ、そして、腕に力を込めて羽交い締めにした。
「抵抗するな。再生の儀式と言ったろう。すぐ、生まれ変わらせてやる。新しい記憶とともに」
「あんな姿を見せられて、信じられる訳がないでしょう」
カーは羽交い締めする腕の力を保ったまま、自分のものと同じ高さにある僕の首筋を舌で湿して、犬歯を立てた。
痛い!
痛みは、極めて薄く、切っ先鋭く、温度は熱く、背筋は冷たい。
流れ出た血をカーが啜る。その鈍い痛みまでが加わる。
そして白昼夢。青い空の下で、無茶苦茶に戦っていたときの記憶が現実と混じる。いや、現実はどっちだ。辛うじて取り出した現実のビジョンを、今見ている夢に振りまいているのではないのか。それともやはり、こちらが現実で、あの青い空は、もはや死した者が見る夢なのか。
白と赤の明滅の中で、グレーテの悲鳴が聞こえた。嫌、みんな、死んじゃう。視野の混濁の中にも、彼女が肩を震わせて嘆き叫んでいるのが、ぼんやりと見えた。
血を啜ったカーが僕を手放し、右手を掲げてひらりと振った。僕の胸から、射貫かれて血が噴き出すように、トラウマの黒煙が迸る。
「……? 妙だな」
だが、その迸りは、ユーディやニコのように一挙に体全体には広まらなかった。勢いも弱まり、胸から黒煙が溢れ出す、という程度にまで勢いが減った。それでも、この出血のような黒煙が止まらない。
「そうか……ツァラ、お前はきっと、元の肉体の性質を多く残しているのだね。力が強いというのも、そのためだろう」
カーは僕とグレーテとを見比べた。
「幽霊になった身とはちょうど真逆だな。グレーテは肉体を半分失ってこの世界へやって来た」
カーのお喋りと鋭い痛みは僕に冷静さを与えてくれた。そして考えていたのが、退路について。
今ここで幕屋を去り、村まで走れば、僕の速度にカーは追いつけないだろう。だが、それで? いくら僕でも、休まずに走ることなどできない。休んだところで、カーは追いついてくる。何せ、この島より遠いところなど、この世界にはないのだから。延々と追いかけっこを繰り広げるばかりだ。ならば、魚人の村へ……いや、カーはこれ幸いと魚人を殲滅しにかかるかもしれない。あるいはトラウマを蔓延させに行くかもしれない、どうやら彼にはそれができそうなのだから。
外に可能性はない。なら、内は。
たゆたう黒煙に視界が危ういが、いつものカーの寝椅子の下、その床に設えられた木の扉が開いていた。
あの下の螺旋階段。その下に何があるか、大方の予想はついていた。それだけでなく、あの階段の狭さなら、カーがトラウマを呼び起こす挙動をする前に組み勝つかもしれない。最後尾で泉を守っていた一族の主と、最前線で一族を守っていた尖兵が、力だけで戦うなら勝負は見えている。
「グレーテ!」
僕が呼ぶと、彼女はすぐさま僕の側まで飛んできた。いい反応だ。
僕は初歩のファイティングポーズでカーを牽制する。ほう、とカーが頤を上げた。面白そうにしているが、嘲っているのだ。
「崩そうというのか。この、私の、王国を?」
案の定、カーは再度右手を掲げた。僕の胸から再びトラウマが溢れ出す。
その一瞬で、僕はグレーテを抱いて身を翻し、床の扉に飛び込んだ。
そして走る。一気に駆け降りる!
階段は狭く、勾配も厳しかったが、僕は何段も何段もいっぺんに飛び越えて階段を降りた。遂には、手すりに腰をかけて滑って降りた。とはいえ、これは尻がすぐに熱くなってしまったが。
「ねえ、ツァラ」
「ん」
階段はまだまだ続く。上空から、カーの足音が響いてきている。
「ツァラ、死んじゃうの? 二人は、死んじゃったの?」
グレーテは怯えていた。
「再生の儀式をすれば体は元には戻るんだろう、きっと。記憶はなくなるみたいだけれどね」
「じゃあ、また私のこと、忘れてしまうの」
アニミストたちは殊更記憶力が悪かった。それは、アニミストたちの性質そのものと言うよりは、何度も生まれ直したために、村に記憶や歴史の蓄積がなかったからなのだ。
「けど、僕は死ぬかもしれないな」
「そんな」
「カーが言ってたろ。僕は、昔の体の性質を強く残しているって。……トラウマでできているアニミストとは、再生の仕方が違って当然だから」
そう、アニミストたちは、トラウマに罹るのではない。トラウマで、できているのだ。
トラウマに真水をかけて治すのは、溢れ出して来るトラウマを、何とか人間の外形の中に押し込めているのだ。希望のような真水を使って。
「僕の、トラウマでできている部分は再生されるかもしれない。けれど、肉体でできている部分は……。もしかすると、きみみたいに、半人前になるのかもしれないね」
グレーテがまなじりを決した。
「カーは、守るべきものを、傷つけているわ」
「そうかもしれないね……?」
グレーテは、頭上をきりりと睨むと、僕を見て、ちょっとだけ笑って言った。
「アニミストを傷つけることなんて、私には、簡単なのよ」
グレーテは僕の手を離れて宙に浮いた。その輪郭が大きく膨張している。粒子の密度を下げて、拡散しているのだ。消えてしまう、吸い込まれる、と言っていた濃度まで。
そしてそのまま、彼女は上空へと飛んでいった。
何十段も上の辺りで、カーの足音が止まった。僅かな口論の後、空気を震わす音、カーが喉を詰める音が聞こえた。
カーが絶叫する。
アニミストは、他の者の血からなるものを食べられない。それをすると、死んでしまうと言われている。他の者の肉体なら、なおさら。どんなに、その密度が疎であっても。
階段がようやく途切れ、足が地下の土を踏んだ。しっとりとした土。砂ばかりの地上では、どこにもなかった土だ。
地下は大きな洞穴になっていた。数歩先は暗闇で見えないが、なぜか手もと足もとははっきりと見え、色までも判別できた。
僕の足もとには、小さく浅い泉があった。儚い音を立てて、水が地下から噴き出している。
水源。
この水源の水が地上へ浸みだして、城の泉となっているのだ。
そして、水源には、男が一人、半身を真水に浸して体を横たえていた。
僕は近付いてその顔を確かめる。鳶色の髪、広い額、細い顎。閉じていても鋭いと分かる目もと。
僅かに砂を散らしたその頬と唇には、血の気がなく、男は死んでいるように見えた。胸もとまで視線を下ろすと、胸には弾痕が穿たれ、黒々と生血が流れ出ている。それが泉に流れこみ、真水と混じり合っていた。
と、男を検分していた僕の頭上に、ひらりひらりと紙が舞い落ちるように、グレーテの薄い体が上空から降ってきた。僕は手を差し出して受け止める。
その胸に、大穴が空いていた。
グレーテの名を呼ぶ。グレーテは薄目を開けて、弱々しく笑った。
「お灸を据えて来ちゃった」
そう言うと、彼女は短く呻いた。その輪郭がさらさらと崩壊していく。
「ツァラ、あなたは、無事でいて。私のこと、忘れないでね」
グレーテは僕の頬に手を添えて、そして、その身を宙に蕩かした。身をなす粒子が舞って、形をなくし、色をなくし、そして、消えていく。
じり、と、背後で土を踏む音がした。
カーが階段を降り、地下まで辿り着いていた。
一度は拭ったはずのその口もとが、また赤く染まっている。そして血が、糸を引いて落ちる。
カーは咽せた。血の塊を吐いた。
暗闇の中で生血は黒々と光った。もはや、血なのか、トラウマなのか、判別がつかない。
カーは転びつつ水源に近寄り、足跡とともに血の、あるいはトラウマの跡をつけながら、最後はほとんど這いずるようにして、その水際に辿り着いた。
そして、その右手の傷を押し開き、真水に浸す。
泉はカーの血を受け入れると、水面が脈動のように一度波打ち、その波が泉全体に広がった。そして、水面が泡立つ。闇のためなのか、トラウマのためなのか、漆黒のその泡が形を取り、続いて色を持ち、服を備えた一組の男女を作り出した。
カーはそれを確かめると、力尽きて泉の前に頽れた。仰向きの上半身が泉に浸かる。ちょうど、先に倒れていた男の体のように。
僕はカーに近付いた。カーは血と水とトラウマと、いずれにも顔を汚していた。
「グレーテの再生ができない」
嗄れた声で呟く。
「グレーテは、トラウマでできてはいなかったのだな」
「あの軽い身だから」
「いいや、彼女は、恐らく、私が、あんなふうにしてしまったのだ……」
カーはちらと首を傾ける。その先には、ずっと倒れたままの男の、死にゆく体がある。
「あれが、私だ」
カーは仰向いて僕を見る。
「そして、これは、私が見ている夢」
これが全て、夢であったなら。
今見ているものが、夢であったなら。
あるいは、皆に夢で会えるなら。
僕は記憶を反芻する。
カーは絶望していた。世界に、たった一人であることに。
自分が最後の一人であることに。
最後の一人が夢を見る時、それが夢か、現実かを判別できる者はいない。
だから、最後の人は夢を見た。誰も死んでなどいない夢を。誰も死になどしない夢を。
それを、現実ではないと言う者は、もう誰もいない。
夢はそのまま、見る者にとっての現実となる。




