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 門の前まで来ると、心配そうにグレーテが村を覗いていた。

「グレーテ。来てたの」

「どうしたの。みんな、トラウマなの」

「一斉に酷くなったんだ。きみも罹るなら、近付かない方がいい」

「私は、罹ったことないけど。どこへ行くの?」

「泉へ。水を汲みに」

 ついて行くわ、とグレーテは宙返りをした。

「じゃあ、後で水筒を持ってくれるかな。僕は水差しを持つから」

 僕は幕屋の中に据えてあった大きな水差しを思い出した。いくらかこぼしてしまっても、あれなら多くの水が入る。

 グレーテは僕の手から水筒を取って、持てることを確認した。

 それから僕らは城まで走った。グレーテは体を縮こめてなるべく風にぶつからないようにしながら、彼女には少し辛いのではないかと思える速さでも、しっかりついてきてくれた。

 途中、数名のアニミストとすれ違った。カーが村に来ていると僕が言うと、皆急ぎ足で村に戻っていった。

 泉と城には人影がなかった。水を汲みに来ているアニミストがまだいると思ったが、ちょうどみな村に戻っているらしい。からっぽの城を、僕は初めて見た。

 水筒に水を汲み、グレーテに手渡す。無事彼女の手を通り抜けなかったのを確認して、僕は幕屋に入った。当然、幕屋にも誰もいない。

 いつもの卓の上にある白い水差しを手にとって、ふと、僕は普段カーが横になっている寝椅子を見た。

 そこは、普段と様子が違っていた。寝椅子が横にずれていて、その下の、いつもは隠されている床に、へこみのついた木の板が敷いてあったのだ。

 その下には黒々と穴が空いている。この木の板は、穴を閉ざす蓋のようだった。

 急いでいる時ではあるが、好奇心が勝って、僕はその蓋を開いて下を覗いてみた。

 長い縦穴の中は、地下へと続く螺旋階段になっている。

 勾配のとても急な、危なそうな階段は、先が暗闇に溶けて無くなるまでずっと続いている。

「あら、階段ね」

「うわっ」

 いつのまにかグレーテが追いかけていて、僕の脇から縦穴を覗いた。彼女は足音がしないのだ。心臓が飛び跳ねた。

「城にこんなものがあったのね」

「君も知らなかったの?」

「ええ、隠されていたのね。……何だか、見たことは秘密にしておいた方がよさそうね」

 僕は頷き、水差しを抱えた。

「水を汲んで、急いで戻ろう」

 同じ道をとって返し、僕だけだが、汗を垂らして息を切らせ、僕らは村に戻った。珍しく、グレーテも嫌がらずに村の中までついてきた。

 ナットが抱えてきたたらいの水はもうほとんどなくなっていて、そこに僕らは水筒と水差しの水をあけた。

 洗礼は終わっていたらしく、残りのトラウマを洗い流すのを手伝っていたカーは、僕の姿を認めると駆け寄ってきた。

 そして、白い水差しに目をとめた。

「幕屋に入ったのか」

「……ええ」

 カーが蛇のように鋭く僕を見据えた。

「見たのか?」

「何をですか?」

 僕は力の限り白を切った。危機感を覚えたのか、グレーテが助け船を出してくれた。

「カー、洗礼をしたアニミストは何人いたの」

 カーは鼻白んだ。珍しくグレーテに声をかけられて、驚いたというように見えた。

「十八人だ」

「今村にいるアニミストは十九人よ。一人忘れてしまっている」

 ざっと通りを見渡すと、広場の突き当たりの家の扉がまだ閉じていた。

「あそこの家は誰の家だっけ」

 ナットは首を振り、カーはこめかみに手を当てた。しかし、グレーテが覚えていた。

「あそこはユスフの家よ」

 そうか、ユスフか、と忘れてしまっていた者の名を呼びながらカーは広場の奥へと駆けだした。

 その体から、トラウマの黒い粒子が舞った。見れば、カーの頬までをトラウマが黒く覆っている。

 僕は水筒を持ってカーを追う。

「カー、トラウマが」

「私は後でいい。トラウマが体を冒すと、私たちは彼を忘れ去ってしまう。彼の存在は完全になくなってしまうんだ」

 カーは件の家の扉に飛びついて、それを引いて開けた。とたんに、これまでで一番厚いトラウマの黒霧が、むっと中から漏れ出てくる。

 僕らが悲鳴を上げると、カーは半ば叫ぶようにして言った。

「私たちが覚えているなら、まだ間に合う。ユスフの体を外へ出して、顔に水をかけてくれ」

 真っ黒に染まった部屋の中央に寝台があり、やはりその上に人影が横たわっていた。僕とニコとでその体を担ぐと、体はすでにその輪郭を崩していて、腹のあたりを抱えるとぐにゃりとへこんだ。

 家の外まで担ぎ出したその体躯は、さらさらと少しずつ黒い煙に変わっていた。それでも顔のあたりと分かるところに水をかけると、ユスフの顔が現れた。

 カーは先の傷を指で押し開いて血を絞り、ヨセフ、と彼の本名を呼びながらその血を与えた。トラウマの黒煙が呻りを上げて舞い上がり、彼の姿はそのもとの輪郭を取り戻す。僕がへこませた腹も、ふっくらとした形を取り戻した。

「間に合った……」

 カーは額の汗を拭い、長い息をつくと、そのまま倒れ込んでしまった。隣にいた僕は慌ててその体を受け止める。そして、あまりの重さに僕まで倒れかけて、腰を落としてぐっと踏ん張った。

 カーもトラウマに冒されているのである。

 僕はたらいの水をカーの顔にかけて、指で拭った。トラウマは音を立てて気化し、顔から剥がれ落ちたが、長衣の下のトラウマにまでは届かない。

 僕は前開きの長衣の釦に手をかけ、腰骨辺りのものまでそれを外して、失礼、と声をかけて前身頃を開いた。とたん、衣服の下で燻っていた黒煙がわっと膨れあがった。のみならず、黒い油のような液体が、じわりと胸から垂れて地に染みを作った。

 半ば黒煙から顔を背けながら、僕はカーの裸の胸に触れた。どくどくと搏動が伝わる。

 その中に、鼓動とは別の、生々しい蠢きがあった。

 ごぼ、ごぼり、と、水が湧き出すようなその響き。

 僕はたらいから水をすくい、カーの胸にこぼす。呻りを上げて黒煙が立ち上り、カー本来の白い胸が現れる。

 その胸の真ん中には、小さな傷があった。

 そして、黒煙が凝縮されたような黒い液体は、その胸の真一文字の傷口から、滲み出し、ごぼりと音を立てて溢れだしたのだ。

「何だ、これは……」

 僕は思わず口に出していた。

 たらいの水を手ですくい、その黒油が溢れ出す傷口に垂らしてみる。すると、これまでにない量のトラウマが空気を震わせて一気に気化し、宙を真っ黒に埋め尽くした。カーが呻く。

 トラウマは空中で、まるで意思を持つかのように、一つの塊に纏まった。それは、僕の記憶に依るなら、鳥の群衆に似ていた。細かな粒子の群れが、うおんと呻りながら、右へ、左へと旋回し、その後、ちょうど先頭の部分が、僕と目を合わすようにして対峙した。

 一瞬の膠着のあと、トラウマはふいと僕から背き、南の空へと飛んでいった。何人かのアニミストにぶつかったようだが、それぞれ精一杯手を振り回して、何とか感染は免れたようだ。

「トラウマってこうやって罹るのかな」

 僕が隣でぽかんとしているニコに問うと、彼はぶんぶんと首を振った。

「トラウマはいつの間にか体に湧き出すんだ。こんなの、俺だって初めて見たぜ」

 僕は再びカーの傷口を眺めた。今にも血が滴りそうなそれは、やはり黒い液体を滲ませている。そして、黒煙がそこから立ち上る。

 そういえば、カーはほとんど常にトラウマに染められていた。そして、他の誰も、こんなに濃密なトラウマを抱えたりはしていない。

 もしかして、僕らを襲うトラウマの黒煙は、カーの胸から湧き出しているのではないか。僕はそんな考えに囚われる。

 カーは未だ気を失っている。長衣を元に戻して釦を留める。目覚めたら、彼は何と言うだろう。僕は何と言えばいいだろう。

 そう思いながら逡巡していると、門のほうから甲高い悲鳴が上がった。続いて、何かがぶつかるような音がいくつも連続して響く。

「何」

「何だ、何だ」

 僕も、カーの側にいたアニミストたち、ニコやナット、グレーテも、門のほうを見やる。

 何人ものアニミストたちが通りを走って逃げてくる。いずれも頭を抱えて走っている。

 その向こうに、何か長いものを構えた人の群れが見えた。数は十と少しといったところ、僕の頭は二小隊の十四人かとはじき出す。いずれも、遠目にも肌の上にうろこが玉虫色に輝いている。

 魚人たちの、軍勢だ。

 魚人たちは一旦立ち止まり、かけ声とともに細長い紐を振り回し、その一端を手放した。ぱっと宙に、黄色っぽいものが投げ出される。

 投石だ!

 僕は腕を頭上に掲げた。石は僕らまでは届かなかったが、足もとまでは跳ねて転がってきた。次の一撃はきっと届くだろう。

「物陰に隠れるんだ!」

 僕はカーの体を抱えながら叫んだ。食い入るように魚人の投石を見ていたアニミストたちは、我に返り、大慌てで家の陰に飛び込む。

 僕もカーを担いで、ユスフの家の陰に潜んだ。次いでかけ声がかかり、投石紐を振り回す音、石が投げられる音が宙を割く。

 魚人には文化がある、と言ったカーの言を僕は思い出した。投石紐は単純な武器ではあるが、石はいくつも持てるし、あの頼りない投げ槍よりはいい武器と言える。僕の記憶に依れば、確か古い書物にも、熟練すれば魔物も一打ちと書かれてあるのだ。

 アニミストたちは逃げ惑い、あるいは隠れてしまって、反撃しようという気配はない。これでは埒が明かないなと、僕はカーの体を地に寝かせ、攻撃の合間を狙って、通りへ飛び出した。

「なぜ村を襲う。要求は何だ」

 そう呼びかけると、戦闘にいた魚人の一人がカーだと叫び、僕に向かって怒りも露わに怒鳴った。

「水を寄越せ」

 戦闘の魚人が言うと、後の魚人たちも、口々に罵った。

「そうだ、水を寄越せ」

「泉を独占するな」

「水を使わせろ、カー」

 そうか、同じ顔の僕を、カーと勘違いしているのか。

 水は、少しくらいなら分けてもいいと僕は思う。カーは嫌がるだろうが、そのカーは今、ちょうど眠っている。

「なぜ水が必要なんだ」

 僕が問うただけで、魚人たちはわあっと激昂した。水を渡さないつもりだと思ったようだ。

「今朝から、トラウマが村に蔓延しているんだ」

「水を出さないなら、考えがある」

「水なら」

 持って行くといい、という一言を、僕は最後まで言うことが出来なかった。鋭い痛みが、下腹部にぱっと広がったからだ。

 下腹から転がったのは、黄色っぽい石。逸った魚人が、投石紐を振り回し、石を放ったのだ。

 それを皮切りに、残りの魚人も一斉に石を飛ばした。僕はちょうど目の前に飛んできた一撃は払い落とすことが出来た。しかしあとの石つぶてからは、腕で頭を庇うことしかできない。

 ともかくも家の陰へ逃げようと身を翻した時、後頭部に石の一撃が当たった。

 痛い!

 視界が真っ白に閃く。

 思わず頭に手をやると、ぬるりとした感触が手についた。見れば、血が手についてきている。

 体中で白と痛覚とが閃く。そしてそれが渦巻く。

 めくるめく目眩と痛覚と混乱の中で、僕は、いけない、と、ぼんやり口に出していた。

 いけない。

 それでもカーの所へ辿り着こうと、地を一歩踏みしめるが、視覚を白く失ったままでも分かるほど大きく、僕は傾き、地に倒れ込んだ。

 いけない。

 いけない。痛いのはいけない。

 この夢が、覚めてしまうから。



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