25
門の前まで来ると、心配そうにグレーテが村を覗いていた。
「グレーテ。来てたの」
「どうしたの。みんな、トラウマなの」
「一斉に酷くなったんだ。きみも罹るなら、近付かない方がいい」
「私は、罹ったことないけど。どこへ行くの?」
「泉へ。水を汲みに」
ついて行くわ、とグレーテは宙返りをした。
「じゃあ、後で水筒を持ってくれるかな。僕は水差しを持つから」
僕は幕屋の中に据えてあった大きな水差しを思い出した。いくらかこぼしてしまっても、あれなら多くの水が入る。
グレーテは僕の手から水筒を取って、持てることを確認した。
それから僕らは城まで走った。グレーテは体を縮こめてなるべく風にぶつからないようにしながら、彼女には少し辛いのではないかと思える速さでも、しっかりついてきてくれた。
途中、数名のアニミストとすれ違った。カーが村に来ていると僕が言うと、皆急ぎ足で村に戻っていった。
泉と城には人影がなかった。水を汲みに来ているアニミストがまだいると思ったが、ちょうどみな村に戻っているらしい。からっぽの城を、僕は初めて見た。
水筒に水を汲み、グレーテに手渡す。無事彼女の手を通り抜けなかったのを確認して、僕は幕屋に入った。当然、幕屋にも誰もいない。
いつもの卓の上にある白い水差しを手にとって、ふと、僕は普段カーが横になっている寝椅子を見た。
そこは、普段と様子が違っていた。寝椅子が横にずれていて、その下の、いつもは隠されている床に、へこみのついた木の板が敷いてあったのだ。
その下には黒々と穴が空いている。この木の板は、穴を閉ざす蓋のようだった。
急いでいる時ではあるが、好奇心が勝って、僕はその蓋を開いて下を覗いてみた。
長い縦穴の中は、地下へと続く螺旋階段になっている。
勾配のとても急な、危なそうな階段は、先が暗闇に溶けて無くなるまでずっと続いている。
「あら、階段ね」
「うわっ」
いつのまにかグレーテが追いかけていて、僕の脇から縦穴を覗いた。彼女は足音がしないのだ。心臓が飛び跳ねた。
「城にこんなものがあったのね」
「君も知らなかったの?」
「ええ、隠されていたのね。……何だか、見たことは秘密にしておいた方がよさそうね」
僕は頷き、水差しを抱えた。
「水を汲んで、急いで戻ろう」
同じ道をとって返し、僕だけだが、汗を垂らして息を切らせ、僕らは村に戻った。珍しく、グレーテも嫌がらずに村の中までついてきた。
ナットが抱えてきたたらいの水はもうほとんどなくなっていて、そこに僕らは水筒と水差しの水をあけた。
洗礼は終わっていたらしく、残りのトラウマを洗い流すのを手伝っていたカーは、僕の姿を認めると駆け寄ってきた。
そして、白い水差しに目をとめた。
「幕屋に入ったのか」
「……ええ」
カーが蛇のように鋭く僕を見据えた。
「見たのか?」
「何をですか?」
僕は力の限り白を切った。危機感を覚えたのか、グレーテが助け船を出してくれた。
「カー、洗礼をしたアニミストは何人いたの」
カーは鼻白んだ。珍しくグレーテに声をかけられて、驚いたというように見えた。
「十八人だ」
「今村にいるアニミストは十九人よ。一人忘れてしまっている」
ざっと通りを見渡すと、広場の突き当たりの家の扉がまだ閉じていた。
「あそこの家は誰の家だっけ」
ナットは首を振り、カーはこめかみに手を当てた。しかし、グレーテが覚えていた。
「あそこはユスフの家よ」
そうか、ユスフか、と忘れてしまっていた者の名を呼びながらカーは広場の奥へと駆けだした。
その体から、トラウマの黒い粒子が舞った。見れば、カーの頬までをトラウマが黒く覆っている。
僕は水筒を持ってカーを追う。
「カー、トラウマが」
「私は後でいい。トラウマが体を冒すと、私たちは彼を忘れ去ってしまう。彼の存在は完全になくなってしまうんだ」
カーは件の家の扉に飛びついて、それを引いて開けた。とたんに、これまでで一番厚いトラウマの黒霧が、むっと中から漏れ出てくる。
僕らが悲鳴を上げると、カーは半ば叫ぶようにして言った。
「私たちが覚えているなら、まだ間に合う。ユスフの体を外へ出して、顔に水をかけてくれ」
真っ黒に染まった部屋の中央に寝台があり、やはりその上に人影が横たわっていた。僕とニコとでその体を担ぐと、体はすでにその輪郭を崩していて、腹のあたりを抱えるとぐにゃりとへこんだ。
家の外まで担ぎ出したその体躯は、さらさらと少しずつ黒い煙に変わっていた。それでも顔のあたりと分かるところに水をかけると、ユスフの顔が現れた。
カーは先の傷を指で押し開いて血を絞り、ヨセフ、と彼の本名を呼びながらその血を与えた。トラウマの黒煙が呻りを上げて舞い上がり、彼の姿はそのもとの輪郭を取り戻す。僕がへこませた腹も、ふっくらとした形を取り戻した。
「間に合った……」
カーは額の汗を拭い、長い息をつくと、そのまま倒れ込んでしまった。隣にいた僕は慌ててその体を受け止める。そして、あまりの重さに僕まで倒れかけて、腰を落としてぐっと踏ん張った。
カーもトラウマに冒されているのである。
僕はたらいの水をカーの顔にかけて、指で拭った。トラウマは音を立てて気化し、顔から剥がれ落ちたが、長衣の下のトラウマにまでは届かない。
僕は前開きの長衣の釦に手をかけ、腰骨辺りのものまでそれを外して、失礼、と声をかけて前身頃を開いた。とたん、衣服の下で燻っていた黒煙がわっと膨れあがった。のみならず、黒い油のような液体が、じわりと胸から垂れて地に染みを作った。
半ば黒煙から顔を背けながら、僕はカーの裸の胸に触れた。どくどくと搏動が伝わる。
その中に、鼓動とは別の、生々しい蠢きがあった。
ごぼ、ごぼり、と、水が湧き出すようなその響き。
僕はたらいから水をすくい、カーの胸にこぼす。呻りを上げて黒煙が立ち上り、カー本来の白い胸が現れる。
その胸の真ん中には、小さな傷があった。
そして、黒煙が凝縮されたような黒い液体は、その胸の真一文字の傷口から、滲み出し、ごぼりと音を立てて溢れだしたのだ。
「何だ、これは……」
僕は思わず口に出していた。
たらいの水を手ですくい、その黒油が溢れ出す傷口に垂らしてみる。すると、これまでにない量のトラウマが空気を震わせて一気に気化し、宙を真っ黒に埋め尽くした。カーが呻く。
トラウマは空中で、まるで意思を持つかのように、一つの塊に纏まった。それは、僕の記憶に依るなら、鳥の群衆に似ていた。細かな粒子の群れが、うおんと呻りながら、右へ、左へと旋回し、その後、ちょうど先頭の部分が、僕と目を合わすようにして対峙した。
一瞬の膠着のあと、トラウマはふいと僕から背き、南の空へと飛んでいった。何人かのアニミストにぶつかったようだが、それぞれ精一杯手を振り回して、何とか感染は免れたようだ。
「トラウマってこうやって罹るのかな」
僕が隣でぽかんとしているニコに問うと、彼はぶんぶんと首を振った。
「トラウマはいつの間にか体に湧き出すんだ。こんなの、俺だって初めて見たぜ」
僕は再びカーの傷口を眺めた。今にも血が滴りそうなそれは、やはり黒い液体を滲ませている。そして、黒煙がそこから立ち上る。
そういえば、カーはほとんど常にトラウマに染められていた。そして、他の誰も、こんなに濃密なトラウマを抱えたりはしていない。
もしかして、僕らを襲うトラウマの黒煙は、カーの胸から湧き出しているのではないか。僕はそんな考えに囚われる。
カーは未だ気を失っている。長衣を元に戻して釦を留める。目覚めたら、彼は何と言うだろう。僕は何と言えばいいだろう。
そう思いながら逡巡していると、門のほうから甲高い悲鳴が上がった。続いて、何かがぶつかるような音がいくつも連続して響く。
「何」
「何だ、何だ」
僕も、カーの側にいたアニミストたち、ニコやナット、グレーテも、門のほうを見やる。
何人ものアニミストたちが通りを走って逃げてくる。いずれも頭を抱えて走っている。
その向こうに、何か長いものを構えた人の群れが見えた。数は十と少しといったところ、僕の頭は二小隊の十四人かとはじき出す。いずれも、遠目にも肌の上にうろこが玉虫色に輝いている。
魚人たちの、軍勢だ。
魚人たちは一旦立ち止まり、かけ声とともに細長い紐を振り回し、その一端を手放した。ぱっと宙に、黄色っぽいものが投げ出される。
投石だ!
僕は腕を頭上に掲げた。石は僕らまでは届かなかったが、足もとまでは跳ねて転がってきた。次の一撃はきっと届くだろう。
「物陰に隠れるんだ!」
僕はカーの体を抱えながら叫んだ。食い入るように魚人の投石を見ていたアニミストたちは、我に返り、大慌てで家の陰に飛び込む。
僕もカーを担いで、ユスフの家の陰に潜んだ。次いでかけ声がかかり、投石紐を振り回す音、石が投げられる音が宙を割く。
魚人には文化がある、と言ったカーの言を僕は思い出した。投石紐は単純な武器ではあるが、石はいくつも持てるし、あの頼りない投げ槍よりはいい武器と言える。僕の記憶に依れば、確か古い書物にも、熟練すれば魔物も一打ちと書かれてあるのだ。
アニミストたちは逃げ惑い、あるいは隠れてしまって、反撃しようという気配はない。これでは埒が明かないなと、僕はカーの体を地に寝かせ、攻撃の合間を狙って、通りへ飛び出した。
「なぜ村を襲う。要求は何だ」
そう呼びかけると、戦闘にいた魚人の一人がカーだと叫び、僕に向かって怒りも露わに怒鳴った。
「水を寄越せ」
戦闘の魚人が言うと、後の魚人たちも、口々に罵った。
「そうだ、水を寄越せ」
「泉を独占するな」
「水を使わせろ、カー」
そうか、同じ顔の僕を、カーと勘違いしているのか。
水は、少しくらいなら分けてもいいと僕は思う。カーは嫌がるだろうが、そのカーは今、ちょうど眠っている。
「なぜ水が必要なんだ」
僕が問うただけで、魚人たちはわあっと激昂した。水を渡さないつもりだと思ったようだ。
「今朝から、トラウマが村に蔓延しているんだ」
「水を出さないなら、考えがある」
「水なら」
持って行くといい、という一言を、僕は最後まで言うことが出来なかった。鋭い痛みが、下腹部にぱっと広がったからだ。
下腹から転がったのは、黄色っぽい石。逸った魚人が、投石紐を振り回し、石を放ったのだ。
それを皮切りに、残りの魚人も一斉に石を飛ばした。僕はちょうど目の前に飛んできた一撃は払い落とすことが出来た。しかしあとの石つぶてからは、腕で頭を庇うことしかできない。
ともかくも家の陰へ逃げようと身を翻した時、後頭部に石の一撃が当たった。
痛い!
視界が真っ白に閃く。
思わず頭に手をやると、ぬるりとした感触が手についた。見れば、血が手についてきている。
体中で白と痛覚とが閃く。そしてそれが渦巻く。
めくるめく目眩と痛覚と混乱の中で、僕は、いけない、と、ぼんやり口に出していた。
いけない。
それでもカーの所へ辿り着こうと、地を一歩踏みしめるが、視覚を白く失ったままでも分かるほど大きく、僕は傾き、地に倒れ込んだ。
いけない。
いけない。痛いのはいけない。
この夢が、覚めてしまうから。




