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 あくまで頑なに眠っている間の夢は見ず、わざわざ目覚めてから、軽い頭痛の中にぼんやりと白昼夢を見た。

 とても嫌なことを思い出した気がして、暑くなり始めたというのに僕は背中を冷汗に震わせた。

 ちょうどその時、家の扉が強く叩かれた。

 扉を開けると、ニコが血相を変えて飛び込んできた。

「ツァラ、お前さんは大丈夫なのか」

 どうしたの、と問うぼくの両手を掴んで、ニコはぱっと腕を開かせた。そして、手を眺め、顔を眺めして、やっと僕を解放した。

「ああ、お前さんは何ともないみたいだな」

「どうしたっていうのさ」

「村じゅうで、トラウマが大発生してる」

 僕はとっさにニコの姿を眺めた。ポケットの多い衣服に隠されてはいるが、首筋と左手が黒く染まっている。ニコが身じろぎすると、そのトラウマが気化してふわっと宙に舞った。

「俺だって目覚めたら顔まで真っ黒さ。まあ、昨日の残りの水があったんで、何とかなったんだが」

「じゃあ、他のみんなは」

「外で体を洗ってるが、水が足りない。動ける奴は、水を汲みに行ってる。お前さんも手伝ってくれ」

 少し水の残った水筒を持って家を出ると、アニミストたちはそれぞれ家を出て、庭や通りで体を洗っていた。とはいえ、昨日の残りの水では体を全てを洗うには足りなかろう。

 ふと、僕は小道を挟んだ隣の家の前に、誰も立っていないことに気がついた。何となく、人の気配がない。既に出かけているのならいいが、もし、そうでなければ?

「僕、この家に人が出入りしているの見たことないんだけど、ここって誰の家?」

 尋ねると、ニコは顔色を変えた。

「やばい。ええと……思い出せない」

 僕は隣家の扉に駆け寄り、どんどんと強めに叩いた。中からは何の反応もない。

「入ってみよう」

「待てよ、そんな、乱暴な」

 僕はニコの顔を見る。本機で諫める顔をしている。この村では家人の許し無しに扉を開けることがないのだろう。何せ、鍵がないのだから。

「でも、そんな悠長なこと言ってる場合じゃないよ。きみはここの人、忘れているんだろう?」

 僕は押しとどめようとするニコの手を引きはがして、扉を開けた。

 中の空間は、気化したトラウマの黒煙に埋め尽くされていた。僕は思わず目の前の宙を手で払う。それから、大きく息を吸って止めて、家の中に踏み込んだ。

 僕の家と同じ一間の家は、窓の側に寝台があり、そこがちょうど人一人の大きさに膨らんでいた。

 寝台に駆け寄り、掛布をめくると、少女らしき人影が、頭の先までを真っ黒に染めて横たわっていた。

「トラウマの末期症状だ」

 追いかけてきたニコが、空間に満ちたトラウマの黒煙に目をしばたたかせながら言った。

 水筒の蓋を開ける間にも、少女の輪郭が宙に溶け始めている。まるで幽霊グレーテのように、その姿が端から黒い細かな粒子になって、煙のように宙に立ち上る。

 僕は急いでその額に水を振りまいた。わっ、と空気を震わせて、トラウマの煙が空中に膨れあがった。その下から、黄色っぽい肌の少女の顔が出てきた。

「ドーニャ」

「ああ、そうか、ドーニャだったのか!」

 全ての水を彼女に注ぎ、僕はその体躯を抱え上げて扉の外に向かった。トラウマの煙が、意思を持つかのようにうねって僕を追う。

 家の外に出ると、ぱっと大気にトラウマが散った。いっぺんに濃度が減って、僕らは黒煙から解放される。

「ドーニャ。ドーニャ」

 僕が名を呼んでも、彼女は目覚める気配がない。しかし、姿が崩れるのは止まったようだ。

「水を汲んでくるより、泉まで連れていった方が早いよね」

「それなら、ユーディに体を洗うのを手伝って貰おうぜ。あいつ、さっき庭にいたはず」

 ニコはユーディの家に走って行き、すぐさま彼女を連れて戻った。ユーディも水差しを持つ右手を黒く染めている。髪が濡れているから、体を洗ってきたのだ。それでも、全てのトラウマを落とせないのだ。

 僕がドーニャを背負い、ニコとユーディは水差しを持ち、皆で通りに出、門に向かった。その時、門の向こうから、おおいと声が掛かった。

 向かってくる人影は二人。ナットと、カーだ。

「カーを連れてきたぞ」

 ナットも、カーも、思うさま濡れそぼっている。かなりしっかりとした沐浴をしてきたのだろう。カーが左手で顎を拭うのは、汗だけでなく、被ってきた真水がしたたるからだ。

 ナットは水の入ったたらいを地に据え、広場へと走った。広場には、小さい鐘つき台がある。やがて、かんかんかんと鐘が鳴らされる音が聞こえた。次いで、カーが来たぞ、とナット当人の声も聞こえる。大した大声だ。鐘はいらないんじゃないか、と僕は一瞬思った。

 待ち焦がれていたのだろう、アニミストたちがすぐさま大通りに列を作り始めた。心得ているナットが列を揃えはじめた。それらを目で確認してから、カーは僕の前に立った。いや、僕の背負うドーニャの前に。

「よく持ちこたえてくれた」

 そう言うと、カーは右の親指の腹を口に添え、歯でかみ切った。痛そうな音の後に、つるつるっと数滴の血が落ちようとする、それを、ドーニャの唇に押し当てた。

「ドーネチカ。カーがお前を呼ぶ。目覚めよ」

 言葉があった。その瞬間、全てが成就した。

 言葉の瞬間、ドーニャを侵食していたトラウマがわっと音を立てて一斉にその体を離れた。さらにいずれも、他のアニミストに感染せず、気化して細い黒煙になったあと、宙に消えたのである。最後にドーニャがぱちりと目を開け、カー、と主の名を呼んだ。

 カーはドーニャの様子を確かめると、次にニコの肩に手をかけた。

「いや、俺はまだ何とかなるんで、先にもっと重篤なやつらを」

「顔が白ければ首まで黒くても保つと? お前が倒れれば、有能な救助要員が減るのだ」

 ニコは戸惑った顔をしながらも、カーに有能と言われて自尊心がくすぐられたのが僅かに顔に出た。

「ニコマコス、カーの声に応え、清浄なる身体を取り戻せ」

 ニコはトラウマが飛び立つ衝撃に思わずといった感でううと呻った。トラウマはやはり、全てが体から離れたらしく、宙に舞って散った。

「ツァラ、洗礼が近かったから無事なようだが、お前も念のために受けよ」

 僕は断ろうかと思ったのだが、カーの視線が、蛇のように睨み据える視線になっていたので、気圧されて頷いてしまった。

「お前こそ、最も消えてはならない者」

 言いながら、カーは傷を押し開き、親指を僕の唇にあてがった。血の味。

「ツァラトゥストラ、最後のアニミスト。カーが呼ぶ。目覚めよ」

 痛みに似た衝撃に僕は身を震わせ、呻く。背中が膨れあがるようだ!

真っ白に閃く視野の中で、黒煙が一筋だけ上がったのを見た気がした。

 衝撃はすぐに収まり、目を開けてみると、視界がさっぱりと、よく見えるような気がする。体を包んでいた、夢の中のような気怠さ、日に灼かれる辛さなどがいっぺんに消し飛んで、体は生まれたばかりのように軽く、五感は鮮やかだった。

 これが洗礼の効果なのか。信じられないのを顔に出して手を握ったり開いたりする僕を満足そうに見やって、カーは列をなすアニミストたちの洗礼に戻った。そして、一人一人の名を呼びながら、その血の雫を与える。列中にはユーディの姿もあって、恭しく血を押し戴くという風情で洗礼を受けた。

 行列が途絶えると、カーは指を折って数を数えた。

「……六人ほど足りない」

 カーは通りを見渡し、ナットを従えて扉の閉まっている家に向かった。一件の家の扉を開け、中から真っ黒の体躯を二人がかりで引きずり出してくると、ナットが水差しに移しておいた水を振りまく。

 カーはヨシュアとその名を呼び、血を与えた。うわっとトラウマが宙に舞う。

「水が足りない」

 ナットが叫んだ。カーが僕を振り返る。

「ツァラ、水を汲んできてくれないか」

 僕は頷き、水筒を持って駆けだした。



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