21
ぼくはカーと正面から対話する気を無くして、身を翻した。帰るのか、と背後から声が掛かる。僕は振り返らず、手だけを振った。
「大人しげなお前も目新しくて良かったが、お前はやはり、そうして天の邪鬼でなくてはな」
「……過去の僕はそんなでしたか」
「もっときかん気だったさ。……金槌を壊したそうじゃないか。他に村で足りないものはあるか」
「……足りないものだらけだけれど」
僕は少しだけカーを振り向く。
「本気で村を魚人から守るなら、棒やロープ、ヘルメットくらいは最低限必要でしょう」
「なるほどな」
カーは苦笑して、寝椅子から立ち上がった。
「アニミストには争うという概念がすっぽ抜けているのでね。そういう助言をしてくれる者がいないのだよ」
カーは僕に近付くと、僕の肩を一つ叩き、僕を追い越して幕屋の出入り口に立った。
「私が人間らしくない所以を見せてあげよう」
そう言って幕屋を開き、泉のある広間へ出ようとした。
僕もそれに倣おうとして、足を止めた。カーが立ち止まっているのである。
「あ」
幕屋の向こうには、グレーテがいた。本当に立ち聞きをしていたのだ。
僕は二人の顔を見比べた。グレーテは、悪戯が見つかったときらしい、ばつの悪そうな顔をしている。
一方のカーは……カーは、何とも言えない表情をしていた。
何かが物足りないというような、何かを求めるような、それが得られなくて悲しむような、そんな嘆きが口もとからふと洩れた。
「グレーテ」
そう言ってから、カーはきっとまなじりを上げ、グレーテを睨みつけた。グレーテはむっと膨れて、その姿を空気に透かせながら、すうっと泉を離れて消えていった。
「……おいで」
カーは何事もなかったかのように泉の前に屈み込み、僕を呼んだ。僕はグレーテの消えていった方をちらりと見てからそれに倣う。
「あんなに睨まなくても」
「睨んでなどいない。半人前がまたちょっかいを出しに来ているなと思っただけだ」
「半人前?」
「半分しか実体のない人間なのだから、半人前だろう」
僕はグレーテとカーが同じ感覚を持っていることに少し驚いた。
カーは言いながら右手を掲げ、傷のある人差し指を親指で押し、傷を開いて血を滲ませた。
そして、その手を泉に浸し、手をひらひらと泳がせた。
と、水に広がった血が形を帯び、長く延び、色を失って赤茶色の細い材木に姿を変えた。
「さあ、棒だ。うまく使え」
カーは血から成った棒を水面から取り出し、僕に渡した。僕はといえば、驚きに言葉もなくその棒を受け取る。
「次はロープだな」
カーは再び水面に血を滴らせる。水に広がる血はまた質量を帯び、長くくねる細長いひもに変わった。カーはそれも水から取り出し、僕に放る。
「その次は、ヘルメットか」
「……金槌もこうして取り出したのですか?」
「アニミストたちには、見せたことがない。尤も、彼らはあまり関心を抱かないだろうがな」
カーは僕を横目で見ながら、悪戯っぽくにやりと微笑した。僕と秘密を分かち合ったつもりなのだろう。
カーは水に血を垂らす創造の儀式を行いながら、ふと思いついたように、ぼんやりと言った。
「……あの少女は、なぜ半人前なのだろうな」
「グレーテですか」
「一体誰が、彼女をあんなに惨めに作ったのだろう」
「惨め、ですか?」
初めて会ったときからすでに幽霊だったためだろうか、僕には彼女が惨めだとは思えない。
いや、青空の下のグレーテを思い出しても、今の彼女が特に不都合だとは思わなかった。どうせ、他のアニミストたちだって人間らしいとは言えない部分を持っているのだし、アニミストが気付かないことにグレーテは気付いているのだ。
「あれはあれで、彼女らしいのではないですか。言いたいことを言って、やりたいことをやっていますよ」
「そうか。……お前はそう感じるのか」
カーは水中で手を何度か泳がせた。
「私なら、彼女をああは作らない」
人間を作ることもできるような口ぶりで、カーは言った。
「ならば、何が、どのような意図で、彼女をあんな風に作ったのか……」
カーはしばらく水中で手をひらひらさせていたが、今度は何も変化がなかった。
「……だめだな。ヘルメットは作れないようだ」
水から手を出し、カーは首を振る。
「あまり複雑なものや、工業製品は作り出せないんだ。拳銃くらいは作ってやろうかと思ったんだが」
「そんなもの」
アニミストたちに扱えるとは思えなかったし、魚人をひどく傷つける気にはならなかった。
「棒で十分でしょう。相手だって大した武装はしていないようだし」
「今のところはな。今後どうなるかは、分からないが」
「なぜですか」
「魚人たちは文化を持っている。道具を自分たちで作り出してもいる。彼らには今後、武器や兵器を作り出す余地がある」
だから危険なのだ、とカーは付け足した。
カーは血の雫を水面に落とし、もう二本ばかり細い木の棒を泉から取り出した。
「村には倉庫があるから、そこへ入れておくといい」
それを僕に渡すと、カーは疲れた顔をして、少しよろめいた。僕は彼を支える。相変わらず、重い。
そして、彼のトラウマが服の下から、手足の先へ、首筋へと、じわじわ広がっていくのが見えた。
「少し休む」
僕はカーを支えながら幕屋に入り、その体を寝椅子へ寝かせた。その間にも、トラウマはカーの首筋から顎、頬までを黒々と染めていく。
「カー、トラウマが」
「いい。後で、水で洗えば、すぐ落ち着く」
今は眠る、と言い残して、カーはすっと眠りに落ちた。今日もやはり、額に汗が浮かんでいる。
僕は枕元に布巾を見つけて、それを取ると泉に戻り、清冷な水に浸して固く絞った。
「何してるの」
「うわっ」
その僕の脇から、突然グレーテが現れた。
「驚いた。どっから出てきたの」
「ずっとこのあたりにいたわよ。姿を消していただけ。何してるの?」
「これで、カーの顔だけでも拭いてあげようと思って。寝汗がひどいから」
「優しいのね」
「兄弟だからね」
「そうなの?」
「そうなんだよ」
覚えていないんだね、という一言は、胸に飲み込む。
僕は幕屋に戻り、布巾でカーの顔をそっと拭った。それでも効果はあるようで、布巾に触れたところからトラウマは黒い煙となって消えた。首筋までを拭けば、僕は少し安心できた。
僕らの主を起こさないようにそっと幕屋を出ると、グレーテが待っていた。僕は脇へ置いていた角材とロープを拾い上げる。
「帰るの」
「帰るよ。これを倉庫に入れるんだけど、きみは倉庫の場所を知っている?」
「知らないわ」
「じゃ、ニコにでも聞くか」
よいしょと棒を担ぐと、グレーテは僕の手にロープを纏めて載せてくれた。僕らは城を後にして砂漠を歩き始める。
「ねえ」
僕は胸の内に固まり始めた計画をグレーテに話した。
「あの青い空の下まで、行ってみない」
「あんな沖まで? あなた、泳ぐっていうの?」
「無理かな」
「無理よ、疲れて沈んでしまうわ。私だって、吹き飛ばされてしまうかも」
「魚人に頼むってのも考えたんだけど、魚人はきっと、僕らの頼みは聞いてくれないだろうし、ヨブとルカには危ないって言ってしまったところだし」
「そんなに見に行きたいの?」
僕は頷く。
「あんなところに、何があるっていうの」
「この世の始まり。もしくは、この世の終わり。きっとあそこにあると思うんだ」
「何それ。そんなの、探して見つかるの」
「わからないけど……」
しかし、グレーテは何かに思い当たったというようにああと一つ頷いた。
「あなたはあの青い空から来たと思っているからなのね。自分の生まれた所を確かめてみたいんでしょう」
そうと僕が頷くと、彼女はちょっと首を捻ってから、静かに言った。
「そうねえ……。もし明日の朝、北の浜に行ってみて、空が青くなっていれば、ついていってもいいわよ」
「ほんと」
声が弾んだ。僕はそろそろ諦めかけていて、ひとりで沖まで泳ごうかと考えていたのだ。
グレーテは後ろで手を組み、ちょっと胸を張ってみせた。
「いいわ。もしあなたが溺れたら、引っ張り上げる要員が必要だものね」




