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 城の番にはユーディとドーニャが来ていた。僕が幕屋の外から声をかけて入室すると、カーは僕の顔を見て何か悟ったらしく、女の子二人に帰るよう促した。ちょっともったいない、と僕は惜しんだ。ユーディに声をかけると、ニコは金槌を持って先に帰ったのだと言った。二人のデートは無事成功したらしい。

 二人が幕屋を去ると、約束通り、僕は開口一番切り出した。

「泉の水を魚人にも使わせたいんです」

 案の定、カーは苦い顔をした。水を渋っているというよりは、僕が魚人に接し、魚人に与していることに対してそうしたのだ。その証拠に、魚人もトラウマを恐れているのです、と言うと、カーはあからさまに嘲った顔をした。

「アニミストが罹るものは、魚人も罹るだろう。この世界にいる者はみな、トラウマに怯えなければならない」

 カーは寝椅子の上ではなく、寝椅子の前に立って言った。

「魚人だって罹れば治りたいでしょう」

「魚人には争うつもりがある。戦うという概念があるのだ。アニミストたちにはない概念が。危険だ」

「そうです、カー。彼らには戦争という概念がある。そして、時間という概念も、家族という概念も。神話すらあるんだ。カー、魚人たちの方が、アニミストよりもずっと、僕らの知っている人間らしいのではありませんか」

「人間、か」

 かーは皮肉げに微笑した。カーのトラウマは、今日は服の下に隠れてしまっているようだ。

「お前は、人間とは何か、分かっているのか」

「ええ。それは、青い空の下にいた、我々です」

「そうだな」

 人間は本来、その血を垂らしても実など為さない。人間の食料はそんなものではない。

「我々は既に、本来の意味での人間ではない。目覚めて以来食事をしていないというのなら、恐らく、お前も」

 カーは指を伸ばし、小さな傷のある人差し指を眺めた。

「私たちの民族の名を思い出したか」

 ストローフェ族、と僕は答え、敵対していたのがスタンツェ族と付け足した。ずいぶんと思い出したものだ、とカーは少し驚いたようだ。

「アニミストの村にいる者は、そっくりそのままストローフェ族の構成員だ。これが、移動したものなのか、置き換わったものなのか、何の力が働いたのかは、分からない。ただ正確に、ストローフェ族の人々がアニミストの村で暮らし、時折、消えていく」

 カーは眺めていた指と掌を裏返す。

「だが、魚人たちはストローフェの者ではない。私の知る限りではスタンツェの者でもない。どこから出てきたのか、何者なのか、全く分からない、危険な存在なんだ」

「神話によると、北の空からやって来たということになっているようですね」

「北の空を見たのか」

「ええ。ちょうどさっき」

 僕はじっとカーの表情を凝視した。しかしやはり、彼はそうかと言ったきりで、大して興味を引かれないような顔をした。

「知っていたと聞いて、驚きました」

「グレーテか」

「知っているなら教えてくれてもいいじゃないですか」

「青空があると? 言ってどうするのだ」

「気にならないのですか? あの青空の下に、何があるのか」

「あの空の下には、何もない」

「見に行ったのですか?」

「ばかな、海は浜から見えるだろう。空が青くなり、その色が海に少し映るばかりだ。他には何も起こらない」

「行ってみたいと思わないのですか。僕らの、本来の青い空がそこにあるんですよ」

「あんな沖まで泳いで行けるものか」

「魚人たちなら行けるかもしれない。そうだ、魚人たちならもっと何か知っているかもしれない」

 僕は自分の言った言葉に自信を持った。魚人なら、海を泳ぎ続けられる。あの青い空に興味も持っている。

「魚人に協力を仰ぎましょう。そのためにも水を分けるんだ」

 カーは黒い髪を揺らした。目を閉じて、首を振る。

「必要ない」

「でも、もしかすると、もとの世界に戻れるかもしれないんだ」

 するとカーは、目を開き、頤を上げて僕を見据えた。

「お前は、この世界が嫌いか?」

 視線が交錯する。カーは、もしかして初めて、僕を正面から見たのではないか。僕と同じ姿の筈なのに、ずっと丈高く、見下ろされているように思える。その威圧感に、僕は背を震わす。

「もとの世界などに、希望があると思っているのなら、お前はまだ全てを思い出してはいないのだ」

「水を争っている、生きづらい世界という意味なら、似たようなものではないのですか」

「全然、違う」

 カーは黒い髪のひと房を指でつまみ、玩びながら寝椅子に横たわった。

「全然、違う。あの青い空の下こそ、我々のもとの世界なのかもしれないが、そこは一切の希望の潰える世界だ」

 そうだったろうか。一族の長であるカーは、人々の希望のために策を練っていた、と、白昼夢のような僕の記憶にはある。大体、僕とカーの義兄弟、義父子の契約も、未来の希望を繋ぐためにやったことのはずだ。

 僕がそのことを話すと、カーは首をまた一つ振った。

「それが成功したとお前は記憶しているのか。そうではないだろう」

 カーは具体的なことは言わずに、ただ僕の言を否定した。

 ふと僕は、カーが全てを話していないのではなく、敢えて重要な要素を話していないのではないかと感じた。未だ話していない、いずれ話すことが控えられているのではなく、決して明かす気のない秘密が、しかも極めて重要なことが秘められているのではないか。 逆に言えば、カーは自分の知っていることの全てを、僕に話すつもりがない。何かを意図的に隠しているのだ。

 この、欠けたものの多い奇妙な世界で、一番に隠したくなること。

 それは、僕らが何者なのか、ではないのか。それを、カーは知っていて、隠しているのではないか。


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