12
城にたどり着くと、泉にはまだ人が来ていなかった。僕らが一番乗りだったようだ。
泉の向こうの幕屋へ声をかけると、カーの涼やかな声が返ってきた。
「ツァラだけでおいで」
僕らは顔を見合わせた。外の番でもするか、とニコは泉を通り越して城の外へ出て行った。
幕屋へ入ると、調度の整えられた部屋は、泉にも負けないほど水の匂いに満ちていた。カーはやはり長椅子に寝そべっていた。彼が身じろぎするだけで、水の匂いが強まり、部屋が涼やかになるような気がした。
「何か思い出したか、ツァラ」
カーは僕と同じ顔で尋ねる。しかし、声はあまり似ていないように思えた。
「少しばかりは」
「空が青かった事を思い出したか」
「ええ」
カーは満足そうに微笑し、一度小さく頷いた。トラウマの黒は、今日はその頤までを染めている。
「言っておくが、なぜ空が赤いのかを問われても私は答えられないよ。私とて、目覚めればすでに空は赤かったのだから」
「では、村や村人達が、何というか……とても、偏っているのは」
「偏っている、とは」
僕はあの、村人たちから受ける喪失感を、なんと言えばよいのかわからず、言葉を選んだ。
「そう……生活感というか、暮らしている形跡が少ない、と思います。何か、いろいろ、足りない。何だか、夢の中にいるみたいだ」
ははっ、とカーは大きな息を吐いて笑った。
「夢、か。お前は面白い事を言うな」
「でも、ちょうどそんな感じです」
「彼らはちゃんと飲み、食べているだろう?」
「夢の中でだって食べます。それに、あの……血から出来た実、あれを食べるのが、僕には、とても……」
ふうん、とカーは寝椅子の肘掛けに腕を添え、頬杖をついた。
「お前は食事をしていないのか?」
「食欲がないんです。食べなくても大丈夫みたい」
「ならば、お前もどこか、偏っているのだろうね」
「カー、あなたは?」
「私か。私も、血の実を食べるよ」
「いえ、そうではなくて。あなたは全てを知っているのですか? ……いや、あなたは、何を知っているのですか?」
カーはきりりと厳しい瞳で僕を見た。直接見比べたわけではないが、僕と同じ顔の彼を、僕は怜悧で、とても綺麗だと思った。僕はこんなに綺麗な眼差しでものを見るだろうか。
「私が知っている事も、この世界に対して、あまりに少ない。私が把握しているのは、まず、私たちの空が、確かに青かったはずであること」
カーはトラウマに染まって黒い指を立てて折った。
「その青い空の世界で、私たちは、水を争って戦っていたこと。この世界でのアニミスト達は、皆、その時の味方、同じ民族だったこと」
「水を争う……」
水源は絶対に奪われてはならない。白昼夢の中で僕自身が口にした言葉が思い出された。それは、水と水源を奪い合っているからこそ語られる言葉だ。
「誰と争っていたのですか」
「隣接区域の民族と。それ以外の民族、というより、それ以外の人間とは、もはや連絡が取れなくなっていた」
「村のアニミスト達は、その時の軍勢だと?」
「ニコなどはお前とよく組んでいたよ」
「では、その民族が、すっかりこの世界へ移ってきたというのですか」
カーは少し困った顔をした。小首を傾げると、ふわりとトラウマの黒が気化して宙に立ち上る。
「それは、わからない。私も目覚めればこの世界に放り込まれていたのだ、とは、先に言ったとおりだ。ただ、ここにいるのは、全ての人々というわけではないようだね」
「では、魚人は? 魚人達も、青い空の下では同じ民族だったのですか」
カーは難しい顔をした。嫌悪感を表した、と言ってもいいかもしれない。
「彼らの存在がどこから滲み出てくるのか、私にも分からないのだ。彼らは同じ民族ではないし、私が知る限り、敵対していた民族の人間ですらない。人の姿をしているのに海で暮らし、数も徐々に増えている。私たちは青い空の下から来ている、と思われるが、彼らがどこから来ているのか、何者なのか、全く分からないのだ」
「青い空の下から来ている……」
あの白昼夢、その空は青かった。そして、僕を気遣うグレーテ。
「では、グレーテも、あの青い空の世界から移ってきたのでしょうか。それで、あんなふうに半分透けているのでしょうか」
グレーテの名前が出ると、カーは少し怯んだようだった。
「カー、彼女はなぜあんな姿なのですか?」
カーは静かに首を横に振った。彼女が透けている理由は、カーにもわからないのだ。
「では、彼女はなぜあなたを嫌うのですか。白昼夢のような、頼りない記憶ですが、確か僕ら三人はとても仲が良かったはずなのですが」
「私もそのように記憶しているが……今の彼女は、多くの彼女らしい側面を残しているが、全然、別物じゃないか。人間ですらない」
その時、トラウマの黒い影が、カーの手や首もとや頤からふわりと気化して立ち上った。
不意に膨れあがったそのもやは、カーの顔を一瞬覆った。あっと僕は声を上げた。僅かだが、トラウマの一部が、カーの赤い唇の中に入ったのが見えたのである。
うっとカーは口許を押さえ、静かに絞り出すような嗚咽を漏らした。口を塞いだ手の隙間から、黒い液体が、黒い気体を伴って、たららたららと洩れ出て来る。僕が慌てて水差しを取ると、カーは立ち上がり、それをひったくって口をつけ、一気に飲み干した。カーの身体を離れたトラウマは、床に溜まったりせず、すぐに気化して宙へ溶けて消えた。
「たまに発作が起こるのだ。真水で身体を清めても、このくらいか……」
カーが寝椅子に戻るのを助けようと、僕はカーの背を支えた。それが、僕からカーに触れた最初だった。
カーは重かった。異様に重い、としか言いようがなかった。僕と同じ顔、ほとんど同じ体格で、計ったわけではないが概ね同じ体重であるのが普通だ。第一、カーの長衣の下には引き締まっていて繊細な体躯が収まっていることくらい、見ればわかるのだ。
こんなに重いわけはない。それが、カーの偏りなのだろう。僕らだって、何かしら、異様なところを抱えてこの世界に来ている。カーも例外ではなかったのだ。
僕は、うっ、だの、ぐえ、だの一言も漏らさずにカーを抱えて無事寝椅子に載せた。良い仕事だったと言える。
カーは水を飲んで座っただけで、指導者としての風格、或いは王者としての佇まいを、完璧に整えてしまったのだ。
幕屋の向こうから声がかかった。ニコと、もう一人、男声が王を気遣う。そんなふうに僕には思えた。
「何かありましたか」
「ニコとナットか。入っておいで。ちょっと発作を起こしてしまってね」
幕の切れ目から現れたのは、ニコと、黒い肩くらいまでの髪を硬派に纏めた、生真面目そうな青年だった。年は僕より少し上に見える。昨日、この城の番をしていた人だ。
「だが、ツァラがうまくしてくれたので、すぐに済んだ」
実際には僕はそこにあった水を飲ませただけだから、手柄を水増しして言ってくれているのだろう。
「また明日おいで、ツァラ」
カーは額にまだ少し汗を浮かべていたが、笑顔で僕にそう言った。
「また話をしよう。それまでに、思い出すこともあるだろう」
そしてニコと、ナットと呼ばれた青年を、やはり黒ずんだ手で手招きした。
「私は泉を守らねばならないから、あまりこの城を出ることができない。しかし、なるべく多くのアニミスト達と会っていたいのだよ」
ニコは何気なく幕屋に入ってきたが、ナットはわざわざ一礼して入ってきた。それを見た僕の方がやっと、そんな儀礼があったことを思い出した。それから僕の顔を見、ちらりとカーの顔を見た。きっと、同じ顔だと見比べているのだろう。
「ツァラ、ナットはまだ紹介してなかったよな。ほれ、握手」
ニコが僕の手を取ると、ナットは自分から手を差し出してくれた。僕はその手を握る。
背筋にちりちりっと悪寒が走った。昨日と同じ悪寒だ。
どうも、僕はこの人が怖いようだ。彼の姿を見ると、言いようもない不安に背中がひやひやとする。
僕は挨拶もそこそこに、また明日と言って幕屋から下がった。
幕屋を出たところには泉が水の匂いをふんだんに立ち上らせている。僕は大きな水筒にその透明な水を汲み、蓋をして、城を後にした。




