第9話 木型の値段
約束の昼、リュシーは古い靴を三足、紐で束ねて持ってきた。
「市場用と、店用と、配達用。どれも、半分だけ合ってるの」
ミレイユは三足を床に並べ、まずリュシーに椅子を勧めた。それから、紙と巻き尺を膝に置いた。
「足を測らせていただいてもいいですか。両方とも」
「片方じゃだめなの?」
「左右で違うことが多いんです。同じ寸法の靴を履けば済む、とは限らなくて」
リュシーは笑って靴下を脱ぎ、踏み台に板を渡した代わりの採寸台に足を載せた。
ミレイユは足の輪郭を紙になぞり、長さ、指の付け根の幅、甲の高さ、踵の幅を、左右それぞれ測って書いた。左の方が、指の付け根がわずかに広い。甲は両足とも高く、踵は細い。
並べた古靴は、その数字を裏づけていた。市場用は幅に合わせて大きめを選んだせいで、踵が余って外側へ踏み潰されている。店用は踵に合わせて小さめを選び、左の小指の付け根の革が内側から押し出されて伸びていた。
「籠を持つのは、両手ですか」
「市場からは両手。配達は片手に花束、片手で裾を持つの。だから、足元はほとんど見ない」
「紐を結び直す時間は」
「ない。朝履いたら、夜まで脱がない」
ミレイユは紙の余白に書いた。両手が塞がる。足元を見ない。脱ぎ履きは朝夕だけ。それなら、紐で甲をしっかり留め、踵を包む形がいい。途中で緩まない結び方も――。
「色は、どうしましょう」
思い出したように尋ねると、リュシーは少し考えて「汚れが目立たない色なら」と答えた。ミレイユは「茶」とだけ書き、また踵の幅の数字に目を戻した。
紙の上に、左右二つの足の形が並んだ。花の香りが、革の匂いに混じっていた。
リュシーが帰ったあと、ミレイユは棚から木型を二本下ろした。
数日前、古道具屋の隅で見つけた中古の婦人用だった。修理の時に靴の形を整えるのに使えると思い、二本で数十銅貨。仕入れの頁にも書いてある。
リュシーの足の輪郭を、木型の底に重ねてみる。長さは一本目が合う。けれど、指の付け根の幅が足りない。甲も低い。逆に、踵は木型の方が太い。
幅と甲なら、革を貼って肉付けすれば補える。けれど、踵を細くするには、木を削るしかない。削った木は戻らない。どこまで削れば踵を包み、どこから先は削りすぎて歩きにくくなるのか。ミレイユには、その見込みが立たなかった。
紙に木型の輪郭を写し、補えるところを青で、削らなければならないところを赤で塗った。赤は、踵の両側に細く残った。
自分で削れば、支払いは減る。けれど、失敗すれば木型が一本だめになり、リュシーの靴は合わない。合わない靴を作り直す革と時間を考えれば、職人に払う銀貨の方が安いかもしれない。それでも、手帳の残りを思うと、ペンを持つ手が止まった。
木型が二本しかない店で新品を受けようとしていることが、急に恥ずかしくなった。父の工房には、壁一面に木型が並んでいた。けれど、あれも父が一本ずつ揃えたものだ。最初から全部を持っている職人はいない。
父の工房では、こういう時、木型職人に頼んでいた。白髪の混じった、口数の少ない職人。ミレイユは何度か、父の使いで図面を届けたことがある。
ベルナール。その名前を思い出すまで、少し時間がかかった。
翌朝、ミレイユはベルナールの作業場を訪ねた。職人街の奥の、木屑の匂いのする路地だった。
戸を開けると、削りかけの木型が天井から何本も吊るされていた。作業台の向こうで、白髪の男が小刀を動かしている。顔は上げなかった。
「ロランのところの、飾り係の娘だな」
「ミレイユ・ロランです。今は、裏通りで自分の店をやっています」
「聞いた」
ベルナールは木屑を払った。
「で、何の用だ」
ミレイユは木型と、リュシーの足の図と、赤と青の紙を作業台に置いた。
「この木型を、この足に合わせて直していただきたいんです。踵を細く、ここまで。幅と甲は、私が革で補います」
ベルナールは紙を一瞥し、それから初めてミレイユの顔を見た。
「誰が仕上げる」
「私です」
「靴を。底付けまで」
「はい。採寸から仕上げまで、私がやります」
ベルナールは何も言わず、木型を手に取った。裏返し、踵を掌で包むように握る。中古の安物だということは、触っただけで分かったはずだ。それでも、口には出さなかった。ミレイユの描いた赤い線に、太い指を当てる。
「この女は、何をする」
「花屋です。籠を抱えて市場から運び、店では水を撒いた床を歩き、配達では片手に花束を持って裾を押さえます。足元は見ません。紐は朝と夜しか結びません」
ベルナールは、しばらく図を見ていた。
「踵を締めるなら、ここだけ削っても駄目だ。踵の後ろの立ち上がりも少し起こす。でないと、歩いた時に踵が上へ抜ける」
「……はい」
「甲は、革で盛るなら厚みを書いて寄越せ。こっちで削る分と、そっちで足す分がぶつかる」
ミレイユはその場で数字を書き足した。ベルナールはそれを読み、一か所を指で押さえた。
「ここは盛りすぎだ。女の足は柔らかいと思って、きつめに作る職人が多いが、逆だ。働く足は、夕方に膨れる」
ミレイユは頷き、数字を一つ書き直した。ベルナールは小刀の柄で紙を叩いた。
「一銀貨と二十銅貨。五日」
「お願いします」
ベルナールは木型を作業台の脇に置いた。ミレイユが礼を言って戸口へ向かうと、背中に声が飛んできた。
「仮に履かせて、作ってみれば分かることもある。その確かめる時間も取れ。最初から全部、木型で決めようとするな」
振り返ると、ベルナールはもう小刀を動かしていた。飾り係の娘と呼んだことを、取り消しはしなかった。けれど、仕事の話は、最後まで仕事の話だった。
採寸から二日後、ミレイユは見積書を二枚書いて、リュシーを待った。
「一枚目は、仕事靴そのものの値段です」
ミレイユは机に紙を並べた。甲革、裏革、底革、糸、作業。合わせて四銀貨五十銅貨。
「二枚目は、木型を直す費用です。一銀貨二十銅貨。手持ちの木型では、リュシーさんの踵の細さが出せません。木型職人に削ってもらいます」
リュシーは二枚目の紙をじっと見た。
「どうして、木型にお金がかかるの? 靴の値段の中じゃないの?」
「普通の形の靴なら、木型は手元のもので済みます。でもリュシーさんは、幅は広いのに踵は細い。今の靴が市場用は踵が抜けて、店用は小指が当たっていたのは、そのせいです。踵を包む形を作るには、その形の木型が要ります」
ミレイユは古い店用の靴を取り、伸びた小指の付け根を見せた。リュシーは自分の靴の傷を、初めて見るような顔で眺めた。
「直した木型は、リュシーさんの足の形として店で預かります。次に作る時や、修理で形を整える時には、木型代はいただきません」
「じゃあ、次も頼むしかないわね」
リュシーは笑って、二枚目の紙を一枚目の上に重ねた。
「底は、二通り考えています」
ミレイユは三枚目の紙を出した。
「一つは、厚めの革底に細かい刻みを入れて、濡れた床で滑りにくくする方。少し重くなります。もう一つは、薄めの底で軽くする方。配達は楽ですが、濡れた床では今と同じくらい滑ります」
「両方は、無理なのね」
「両方を少しずつ、なら。底は中くらいの厚さにして、刻みは踵と指の付け根だけに入れる。その分、値段は一枚目と変わりません」
リュシーは三つの案を指でなぞり、最後の案で指を止めた。
「これにする。合わせて、いくら?」
「五銀貨七十銅貨です。お代は、お渡しの時に。仮合わせは、木型が届いてから四、五日後になります」
ミレイユは、新品用に作り直した記録紙に、合意した額と、底の仕様と、仮合わせの予定を書いた。リュシーが名前を書き入れる。図面と見積書が、同じ机の上に並んだ。
見送りに戸口まで出ると、通りの空が曇っていた。
リュシーは花籠に布を掛けながら、ふと思い出したように言った。
「そうだ。雨の日も、配達はあるの。その時も履きたいんだけど、大丈夫よね」
ミレイユは、大丈夫です、と言いかけた。
「……雨の日に使うなら、そのつもりで作らないといけません」
リュシーが顔を上げた。
「今の仕様のままだと、底の革が水を吸って、刻みも効きにくくなります。底に蝋を染み込ませて、縫い目にも蝋を引けば、ずいぶん違います。甲の革も、油を多めに入れたものを選びます。その分、三十銅貨ほど上がります」
「三十銅貨なら、いいわ」
「ありがとうございます。記録に書き足します。それから、材料を選ぶ時に、また別のことが分かるかもしれません。何か変える時は、作り始める前に必ずご相談します」
リュシーは頷き、布を掛けた籠を抱えて通りへ出ていった。雲の下で、水仙の黄色だけが明るかった。
ミレイユは記録紙に「雨天配達あり。底・縫い目に蝋、甲は油多め。合計六銀貨」と書き足した。それから、ベルナールに宛てて短い書き付けを作った。――雨の日にも履く。底に蝋を染ませるので、少し硬くなる。爪先の反りを、その分だけ見込んでほしい。
まだ一枚も、革を裁ってはいない。けれど、作る靴が晴れの日だけのものではなくなったことは、もう分かっていた。




